くにさき画報

死するとも なほ死するとも我が魂よ 永久に留まり御国護らせ

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これ以上なく判りやすく解説してやる

[拉致被害者会見]「当局の筋書きをなぞった発言だ」読売新聞社説より

金英男さん記者会見についてだが、僕がもっと判りやすく解説してやる。
記者会見での金英男氏の発言の要点は以下の通り。

『めぐみは94年に自殺した。』
『めぐみの遺骨を日本政府が偽物だと鑑定したのは、めぐみと私に対する侮辱だ。』
『私は拉致されたのではない。漂流しているところを北朝鮮の船に助けられた。』
『労働党の懐に抱かれ幸せに暮らしている。』

なるほどなるほど、つまりこういう事だな。








日本人は味噌汁を飲みません。









アメリカ人はハンバーガーを食べません。









フランス人はチーズを食べません。









ドイツ人はビールを飲みません。









インド人はカレーを食べません。









ロシア人はウォッカを飲みません。









イタリア人はパスタを食べません。











『韓国人の嘘・日本の671倍』 朝鮮日報
http://japanese.chosun.com/site/data/html_dir/2003/02/13/20030213000039.html




ありえねーって事だよ。




終わり。




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  1. 2006/06/30(金) 17:48:59|
  2. 時事・雑感
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国東半島の鬼




「また国東ネタか・・・懲りんのう・・・。」



(無視)
「今回は豊後高田市の天念寺の紹介です。」





IMG_1193_1.jpg
豊後高田市長岩屋の天念寺。
天念寺は養老二年(718)に開かれたとされる随分古いお寺だ。ここのポイントは「川中不動尊」と「修正鬼会(しゅじょうおにえ)」の2つ。

IMG_1191_1.jpg
天念寺の目の前を流れる長岩屋川の中の岩に高さ3.23メートルの不動明王と2童子が彫られている。

IMG_1192_1.jpg
江戸時代中期に川の氾濫を鎮めるために彫られたという。
実際、昭和16年の水害では寺の存続が危ぶまれる程の被害を受け、国宝の仏像を埼玉の寺に売って、辛うじて再建されたらしい。(仏像は42年後の平成9年に豊後高田市が買い戻した。GJ!)

現在は長岩屋川は整備され、川中不動周辺は流れが治まるようになっており、鯉とかがいるチョットした池っぽくなっている。
川の流れに抗う不動も見たかったが、地元にとっては川の整備は死活問題なので止むを得まい。

tennenji.jpg
この天念寺の特徴といえば何と言っても「修正鬼会(しゅじょうおにえ)」だろう。
「修正会」とは平安時代から奈良や京都の寺でも行われてきた正月行事で五穀豊穣を祈るもの。「鬼会」は早い話が節分の行事。
この二つが一緒になったものが国東の「修正鬼会(しゅじょうおにえ)」というわけです。

t_onie33.jpg
前述の川中不動の前で身を清めた後、4mのたいまつをぶつけ合ったりするハチャメチャな行事だ。

t_onie01.jpg
その後、暴れる赤鬼とそれを鎮める黒鬼が出てきてタップダンスのような舞を踊る。

この行事は昔は国東半島中の寺で行われていたらしいが現在はこの天念寺と岩戸寺、成仏寺の3ヵ所でしか行われていない。(それぞれの寺でやり方は少し違うようです。)




木造建築の中で火祭りとは豪気な・・・。」




「他の地域の鬼会行事は“悪い鬼を追い払う”行事なんだけど、国東では鬼は良い事もすると考えられているの。だから国東の鬼にはツノがないんだけど、最近はそういう事を知らない人が増えて、修正鬼会のキャラクターデザインとかにはツノがあったりする。歴史を知らないって怖いわ。」


「前回のケベス祭りの話の時にもあったが、どうも国東では異形の者を“暴れるけど益をもたらすヤツ”と見ているフシがあるな。」



「渡来系が多かったんだと思う。“火”は鍛冶師を現すコードでもあるし。国東半島北部の竹田津・香々地は中国大陸から、姫島などは朝鮮半島からの渡来を示唆する伝承が残ってるわ。いづれやるけど。」



「韓国人や在日が飛びつきそうなネタだな。」




「まぁその時は日本書紀を信じてもらう事になるけど。」








『国東半島の鬼』 終わり





(日本書記には倭国が朝鮮半島南部を支配したという記述がある為、韓国人は“日本書記は捏造偽書”と主張している)
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(しかし何故か同じ日本書紀に書かれている渡来系の話だけは信じている。アホめ。)
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  1. 2006/06/30(金) 16:37:24|
  2. 知られざる国東半島
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吐き気を催す邪悪とは


今回は先手を取ってきましたね。

韓国海流調査実施へ 竹島周辺 西日本新聞

7月3―14日にかけて日韓双方が自国の排他的経済水域(EEZ)と主張している海域を含む竹島周辺の海流調査をやるそうです。

前回の名称問題で弱腰外交との批判を受けての強硬案だろうか、
政権維持の為か支持率アップを狙っているのか知らないが本当に愚かな酋長だ。

日本がサンフランシスコ講和条約に締結し、条約で「竹島」が日本が放棄する領土に含まれなかった事に火病を起こし、条約の効力が発生する直前に「李承晩ライン」によって武力占拠した状況が現在まで続いているわけだが、相変わらず「軍国主義日本」を叫べば日本人が無条件で下を向くと思っているようだ。

日本人の良心の呵責につけ込んで自国に有利な主張をゴリ押しする中華(中国・韓国・朝鮮)のやり方に、もはや日本人は辟易しているのが現状なのだが。

今回も韓国側では軍艦・航空機の派遣も検討されているようだが、さてどうするか。
今後の展開によっては「竹島祭り」再燃である。


日本人が選べるのは2つ。

1. 相手の主張を全面的に受け入れる。
2. きっちり自国の立場を主張する。

日本と韓国が武力衝突する可能性は極めて低い。
が、ゼロではない。
ちなみに多くの日本人が選択したいであろう「無視する」という従来の選択肢は「1」に含まれる。

衝突を避ける為に「大人の対応」とやらで黙って韓国の行動を見過ごした方がよい?
韓国は「可哀想な被害者」だから、加害者の日本は土下座して領土を差し出して許しを請うべき?

なるほど、日韓友好の為には日本は無条件、韓国の主張を受け入れるべきだという意見もあるようだ。










      だ が 断 る

この公之介の最も好きな事の一つは

涙と怒りのパフォーマンスで同情を買い

問題をすり替えながら常に被害者のつもりでいる

しおらしい哀れな韓国人の主張に

あえて
「NO」と答えてやる事だ





「吐き気を催す邪悪とは!
何も知らない無垢な赤子に憎しみを教え、
政治的に利用する事だ!」


koreanboy.jpg


だがこのイルボン、容赦せん!


7月3日、注視セヨ




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  1. 2006/06/29(木) 22:43:27|
  2. 時事・雑感
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やなせたかし大活躍~その2


高知県を訪れて感じた事がいくつかある。

まずは高知は広いという事。
意外と歴史・文化などネタが豊富である事。
そして、漫画家やなせたかしが大活躍であるという事だ。

アンパンマンミュージアムについては前述した通りだが、彼の活躍はそれだけに留まらない。



先日の投稿『鍋焼きプリン?? 』でもご紹介した須崎市の名物「鍋焼きラーメン」のキャラクターもやなせ氏だ。

その名も「なべラーマン」
なぜ「鍋焼きラーメンマン」ではなく「ラーマン」なのか、
その多くは語られていないがアノ男の影響が少なからずあるものと推察される。
↓アノ男



さらに土佐くろしお鉄道「ごめんなはり線」の20駅全てのキャラクターもやなせ氏。

後免駅の「ごめん えきお」君と奈半利駅の「なは りこ」さん。
らしいと言えばらしいが、なんちゅーネーミングじゃい。
まるで国東半島だけにクニオとサキと名づけるようなセンスである。

「・・・。」




ごめんなはり線のページにはこんな事が書かれている。
以下引用

土佐くろしお鉄道「ごめん・なはり線」は、1965年に着工しましたが、工事中断などもあって2002年7月1日の開業まで、実に37年の長い年月がかかりました。
高知市の隣、南国市後免(ごめん)から安芸郡奈半利(なはり)町まで、11市町村、42.7キロの道のりですが、ほんとうに遅くなって「ごめん・なはり線」でした。

引用ここまで

>ほんとうに遅くなって「ごめん・なはり線」でした。

ほんとうに遅くなって
「ごめん・なはり線」でした。


37年の工期の遅れをダジャレでかわすそのセンス。惚れたぜ。
フツー殴られるよね。


やなせ神話はまだ終わらない。


今年の4月から開かれている「土佐二十四万石博」、
そのキャラクターもまた、やなせ氏である。

もうココまで来ると高知県中にやなせキャラが溢れ返っているのだ。

無論、やなせたかし氏は偉大な漫画家である。
しかし、あまりにも個人に頼り過ぎていないだろうか。

てな事を考えていたら、現在FC2ランキング漫画部門でベスト10キープ中のブログ、
『現実は夢、夜の夢こそ真実』の管理人「電気ブラン」氏が、
「土佐二十四万石博に一言」という記事の中で同様の指摘をされておられました(タイトルをクリックして内容を確認されたし)。

電気ブラン氏が既に4月の時点で言及されている所に注目。
九州からの来訪者である僕が感じたように、地元の人から見てもそのように映るのである。



~まとめ~
「なべラーマン」の須崎市などは、その寂れっぷりが「昭和の町」計画以前の豊後高田を見るようで忍びなかった。
なんとしてでも全国にPRしたいという気持ちはよくわかる。
だからといってやなせ氏の威光を借りようというのは安易すぎないか。

安易といえば、九州もピンチである。
もう九州以外の地域からの観光客の増加は期待できず、結果、韓国人観光客を熱心に誘致している現状である。(特に大分ぁ!こらァァーッ!)

なぜ日本人が九州へ来ないのか、
早い話が中央の追っかけをやってるからだ。
モノもヒトも街の空気も全て東京と似たようなものばかり。
九州らしさを捨てた結果、九州まで来る必要が無くなってしまったんだ。

安易な方法に頼らず、原点に還れ。

「本来のソフトパワーを生かし、他地域との差別化を図る」
それ以外に地方が生き残る方法があるのだろうか。


話が逸れたが『今日の結論』
「高知県は今後のキャラクター制作には
徳弘正也を起用せよ。」


異論は無いと思う。ウム。終わり。


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  1. 2006/06/27(火) 20:05:36|
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やなせたかし大活躍~その1


「アンパンマンミュージアムに行ってきた。」




「意外・・・と言うより不気味なんだけど・・・。
なにか企んでる?」





IMG_2421_1.jpg
四国・高知県香美市香北町にある「アンパンマンミュージアム」
1996年に開館。(右上のアンパンマンがポイント)
当初は「土佐二十四万石博」に行くつもりだったのだが、何かと僕のマニアックな歴史ツアーに付き合ってもらっている相方の希望を受け入れる形でこちらへ来る事になってしまった。

歴史絡みの場所でなければ僕のテンションは著しく低下する。

が、

意外に良かったように思う。

IMG_2419_1.jpg
館内撮影は許可されているが、ネット上に出す事は禁止されているので写真はここまで。

基本的に子供向けではあるが、四階のギャラリーは大人も楽しめる。アンパンマンの歴史や、やなせたかし氏の解説文などは感動的ですらある。
「パッとしない漫画家の僕が晩年に出会った最弱のヒーロー」
「キミと出会えてよかった」

最初は編集者などから酷評されたらしいが、それでも子供達のハートをガッチリと掴み、その親の口コミによってじわじわと人気が上がっていく様子はそれだけでドラマである。
(ちなみにアンパンマンは初登場でいきなり恐竜に喰われているw)

子供のころにアンパンマンを見ていた人は感慨深いものがあるようだった。

僕ですか、僕の感想としてはギャラリーを見て、
やなせたかしは
本当は絵が上手い

という事を思い知りました。すいません、ナメてました。





「アンパンマンミュージアム」は今年で10周年、来館者は200万人を突破した。一人の漫画家の記念館で、さらに地理的条件を考えれば『驚異的』と言わざるを得ない。」



「無敵でも万能でもない、でも仲間達に支えられて共に苦難を乗り越えていく・・・日本のキャラクターの魅力って、弱さを克服していく姿にあるのかも。アンパンマンはその代表的キャラクターだと思うわ。」



「ちなみに『大和ミュージアム』は開館後わずか一年で来館者170万人。いかにこの数字が偉大であるか判ってもらえるかと思う。まさに我が帝國海軍の栄光、未だ衰えを・・・」



「結局それが言いたかっただけか・・・。サイテーだ、この男・・・。」




「人の話を途中で切るな。いいか、我が帝國海軍は創設以来、その伝統を重んじ幾多の・・・」



「ハイハイ、
偉大偉大。」








「やなせたかし大活躍~その1」  終わり 「~その2」へ続く




↓いやぁ、偉大ですよ、帝國海・・・やなせたかしは。
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↑何はともあれアンパンチしていただけたら幸いナリよ。

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  1. 2006/06/27(火) 02:40:27|
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イージス艦『こんごう』見てキターーーー!!

「ウワーッハッハッハッハ!グワァーッハッハッハッハ!!」




「この展開、前もあったね・・・。今度は何?」



「栄光ある我が帝國海軍の正統後継者である海上自衛隊が誇るイージス艦『こんごう』、とくと見くされや~!!」


「クドイ・・・。」







長崎県佐世保市の「海上自衛隊佐世保史料館・セイルタワー」

sasebosuikousya_1.jpg
もともとこの場所には「佐世保水交社」という、海軍士官の為の福利厚生施設が存在した。
「佐世保水交社」は1898年に現在の場所に移転、そして1945年以来、米軍に接収されていた。日本に返還されたのはなんと1982年である。

そして防衛庁管轄下で修復され1997年3月に史料館として開館、今年5月に来館者100万人を突破した。(下の写真の左側の建物と上の写真の下の部分を見てちょ)

IMG_2109_1.jpg
さて、ここで残念なお知らせ。
この史料館は館内撮影禁止の為、撮影できたのはこのコスプレ記念撮影コーナーだけである。(僕がコスプレしたかどうかは大人のヒミツ☆)

結論から言うとこの史料館、とっても充実している。
7階建てでフロアーも広く、海軍創設から海自の活動までの歴史をタンマリ見ることができる。

sasebo_1.jpg
(これはお土産の葉書の写真。これはいいでしょ?)
まずエレベーターで7階まで上がってそこから1階へと進むのが順路。

7階 映像ロビーと展示室(運がよければアレが見える)
6階 徳川幕府の海軍から佐世保鎮守府までの歴史
5階 日清・日露戦争(一見の価値アリ!)
4階 大東亜戦争(レアな史料アリ!)
3階 海自の歴史・自衛艦の変遷(全艦船の写真や模型)
2階 海自の活動・装備・史料閲覧室・Q&Aコーナー(無論全問正解)
1階 企画展示室・展示ロビー(72式魚雷の解剖レプリカが素敵)

大和ミュージアムと違い、初めて見る史料が多く、個人的に非常に満足のいくラインナップでした。

特に水兵の「休暇申請書」。「休暇中の心得」を本当にみんなに読ませたい(笑)。単なる休暇申請なのに「親孝行しろ」とか「困ってる人がいたら助けろ」とか「ツマラヌ飲食店ニハ入ラヌ事」(←海軍最高w)とか、もう硬派。旧軍に偏見ある人とかに読んで欲しい一品。

さてさて、7階はちょっとした展望室になっていて佐世保港が一望できる。運がよければ「イージス艦」を見ることができます。

僕ですか、僕は日頃の行いの良さが炸裂しました。
なんと自衛官の方が「あそこに『こんごう』がいます」と教えてくれたのだ!

ボソボソ・・・館内撮影禁止ではあるが、「館内から館外は撮影禁止」とは言ってないな・・・。ウムウム・・・




ていっ!




撮った!イージス艦を撮ったよ!




イージス艦『こんごう』







「え?」



「ムゥ・・・?」






「はぅわっ!!」


「小さ・・・。」








『イージス艦「こんごう」見てキターーーー!!』 終わり



↓こんなオチでええやろか・・・。
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↑だって・・・だってなんだもん・・・。
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  1. 2006/06/25(日) 02:38:44|
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熊野磨崖仏で凶器を手に入れた


「今回は久々の国東半島のお話でーす!」




「ふーん」







大分県は日本で最も石仏の多い地域である。
中でも国東半島にある『熊野磨崖仏』は日本最大級を誇る。



磨崖仏のある胎蔵寺までは宇佐駅からバスが出ているが結構な距離があると思う。(豊後高田市には駅がないのだ!)
胎蔵寺からさらに山道を上がると鳥居が見える。
そして鬼が一晩で築いたと言われている乱積の石段を99段登りきった所に磨崖仏がある。

IMG_1204_1.jpg
胎蔵寺からだいたい30分ぐらい登山を楽(苦)しんだ後、ようやくその姿を現す。
不動明王像が約8m、大日如来像が6.7m。
制作年代は奈良時代とも鎌倉時代とも平安末期だのいろいろ言われている。

IMG_1202_1.jpg
当初は全身が刻まれていたらしいが風化による崩壊によって今の形になったらしい。
大日如来像の頭上には曼荼羅が見える。

DVC00001.jpg
ふもとにある土産物屋で買った「苦逃幸来鬼(くにさきおに)」というお守り。なんでも国東にしかない珍しい菱の実で、鬼面に見える事から名づけられたらしい。僕も国東生まれですが初耳です。
まぁ、護身用の武器にはなりそうだ。

国東は独自の宗教世界を持っていて神やら仏やら鬼やら龍やら弘法大師やらに纏わる伝承や習慣が残っているのは確かで、そういえば僕も「おせったい」とかいう行事に参加した事があったなぁ。
うんうん。終わり





「うオイッ!早いよ!
もっと掘り下げろよ!



「まぁ興味のある人は自分で調べるだろう。だいたい国東半島は地味なもんしかねぇんだよなぁ。」



「あるよ!
国東には素晴らしいものがたくさんあるよ!」



「おっ、ゾマホンの物まねか?懐かしいね。」





「・・・・・・ッ!」









『熊野磨崖仏で凶器を手に入れた』 終わり





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↑ゾマホンは現在ベナン大統領特別顧問。
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  1. 2006/06/23(金) 15:08:02|
  2. 知られざる国東半島
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「かずら橋」で考える伝統の継承と保存




「わぁ!何これ?どこ行ってきたの?」




「これは徳島県三好市の西祖谷山村の『かずら橋』ってやつだ。」




「にしい・・・『かずら橋』?」




「にし・いや・やまむら」




「・・・の『かずら橋』ね!」




「読めてねぇー!」









『かずら橋』
四国の山奥、1千メートル級の山に自生する直径8センチもある「しらくちかずら」を5トンも使用して造られた驚異の吊り橋。

『かずら橋』の最古の記録は1646年。『阿波国図』に7つの『かずら橋』が記載されているが、いつ頃からあったのか、誰が造ったのかは諸説あるが不明確。

祖谷(いや)地域には平家の落人の集落があるため、この地域に逃げてきた平家の一党(平国盛?)が、万が一、追っ手が迫った時に即座に切り落とせるようにこのような橋を考案したとも伝えられている。


『かずら橋の作り方』(夏休みの自由課題に最適!)
まず、両端の大木から5本の「しらくちかずら」を通して「敷き網」にし、次に左右2本ずつの「壁網」を通します(「しらくちかずら」は火であぶると加工しやすいよ)。
そして丸太や割木の「サナギ」と称する橋桁を細蔓で「もつい壁(欄干)」に丁寧に編み上げていきましょう。言い忘れてましたが長さは45m、谷からの高さは14mもあるので落ちないように気をつけてね☆

意外と簡単でしょ?


「なにが『気をつけてね☆』だ・・・。」





さて、実はこの『かずら橋』、よく見るとしっかりワイヤーが通されている。
大正時代までは100%自然素材だったが危険防止のため1923年には全ての『かずら橋』が架け替えられてしまった。

そう、『かずら橋』は一度、消滅している。

しかし1928年、地元有志によって『かずら橋』は復活、ただし安全性重視の為、ワイヤーを通す事になったというわけです。
がっかりする人もいるようだが、僕はわずか5年の空白で復活させた事を評価したい。
「伝統」というのは誰かが守らなければ簡単に消えてしまうもので、三世代途絶えた時点で永久に失われる(結局それ以降は残った資料を元に推測と想像で復元せざるを得ない。それはもはや「伝統」ではなく「考古学」である)。

そんなわけでたとえワイヤー張りであっても、危うく途絶えかけた伝統技法を次世代に繋いだ先人達に敬意を表したい。
現在でも 3年に一度架け替えが行われており、村人総出で約2週間を要するとか。ご苦労様です・・・。

IMG_2443_1.jpg
しかしワイヤー張りだからといってナメてはいけない。
見よ、この床木の間隔。20センチはあるだろうか。ワイヤーを通しているとはいえ、結局は木にくくりつけているだけなので、一歩ごとに大きく揺れ、手放しで歩けるほど生易しいものではない。






「日本ほど伝統文化を大切にしてきた国はない、とオレは思うのだが・・・。」




「何?どうしたの?」






「え?何コレ?」




「年間50万人もの観光客が来るってんで、三好市が張り切って『かずら橋』周辺を開発しちゃってるんだよね。昔からやってる民間の駐車場は無料とか、高くても200円なんだが、画像の市営駐車場は500円。軽くボラレた気分になる事ウケアイ。」


「う~ん、これだけ大規模な開発があると『秘境にある不思議な橋』ってイメージじゃないわね。」




「開発された場所にあるワイヤー張りの揺れる橋・・・。そうなると伝統文化と言うよりテーマパークのアトラクションだよな。」



「お金が欲しいのは判るけど、空気読めよって感じだね。」





↓そんな僕も飲み会とかで全く空気読まなかったりする。
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  1. 2006/06/21(水) 18:55:08|
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韓国の英雄と大分県の偉人(後編)


さてさて、『韓国の英雄と大分県の偉人(後編)』
「こどもの日」を提唱し、また、「日本のアンデルセン」と呼ばれた児童文学者「久留島 武彦」については先のエントリで説明があった通りだが、あまり知られていないエピソードを紹介してみよう。


(注:先に韓国の英雄と大分県の偉人(前編)を読んでいただけると面白さが倍増いたします。)





        ↓コイツ。

韓国の英雄「李舜臣(イ・スンシン)」
文禄の役(1592年)・慶長の役(1597年)で豊臣日本軍と戦った武将である。日本では「朝鮮出兵」、韓国では「壬申倭乱(イムジンウェラン)」という名称が一般的だ。

さて、この「李舜臣」、韓国の英雄である。
どのぐらい英雄かというと「ありえないぐらい」英雄であり「聖雄」とさえ呼ばれている。

韓国人は言う。
「李舜臣将軍様は世界四大提督の一人です!」(←韓国人が勝手に決めただけ)
「李舜臣将軍様の戦術はイギリス海軍学校でも教えられています!」(←全くのデマ)
「李舜臣将軍様が倭軍を追い払いました!」(←明との講和成立後、退却する日本軍を攻撃)
「日本の戦国武将は李舜臣将軍様以下の存在ですね、プハハ~!」(←薩摩の島津軍が撤退ついでに李舜臣を射殺。でも褒美無し)
「日露戦争の時、東郷平八郎は李舜臣将軍様の戦術を研究し、李舜臣将軍様が発明した「鶴翼の陣」でロシア艦隊を打ち破りました!」(←全くの寝言。秋山参謀が研究したのは瀬戸内海の水軍の戦術。ロシア艦隊を打ち破った陣形は「丁字戦法」。だいたい鶴翼の陣は李舜臣が発明した戦術ではない。)
「東郷平八郎は李舜臣将軍様を尊敬し、神様として崇め、イギリス人のインタビューで『私をネルソン提督と比べてもよいが、李舜臣将軍様に比べれば私は下士官にすぎない』と発言しました!」(←全く根も葉もないデマ。どうやら在日韓国人が司馬遼太郎の「街道を行く」を読んで妄想を撒き散らした模様)
「豊臣秀吉の遺言は、『李舜臣には気をつけろ!』でしたね!」(←テレビドラマのワンシーンらしい)

韓国人の李舜臣崇拝の妄想発言の例を挙げるとキリがありません。
冗談に聞こえるだろうが韓国人は本気でそう思っている。(ゲームキャラとして李舜臣の能力値が低すぎるとメーカー「KOEI」に苦情が殺到したとか)

050831_10_1.jpg
昨年、韓国で爆発的にヒットした大河ドラマ「不滅の李舜臣」というドラマが上記に挙げたような内容を含んでいたらしい。


今は無き旧500ウォン札。次は新札で竹島を背景に再登場するという噂も。ボケが。


100ウォン硬貨の裏側にも李舜臣。ウゼェ。

なぜ、かくも李舜臣は英雄視されるのか。
答えは簡単。

朝鮮史上、日本軍に対して戦果を挙げた唯一の武将だから。



しかし、朝鮮出兵には日本の数多くの有名武将が参戦したが
誰一人として討ち取られていないわけだが。










あ、いや、実は李舜臣に武将を討ち取られた部隊がいる。







余りに無名なので忘れられているだけである。






それは兵力僅か700名足らずの四国の
「来島通総(くるしま みちふさ)」である。
来島隊は通総の兄、得居通之も討ち取られており、朝鮮出兵で戦死した武将級はまさにこの「来島家」だけなのである。

日本では来島家の知名度は極めて低い。せいぜい村上水軍の分家として知られている程度だろうか。
逆に韓国では秀吉の次ぐらい有名である。なにせ「聖雄」李舜臣将軍様が討ち取った唯一の武将という事で。

日韓翻訳掲示板では当初、「李舜臣将軍様は日本の有力大名クルシマを討ち取りました!」と韓国人が自慢し、日本人が「誰ソレ?」と答えに困るシーンも度々見られた。


朝鮮兵に二人の武将を討ち取られるという大失態故に、日韓翻訳掲示板の日本人からも来島は「日本最弱の武将、っていうか武将?」という不名誉極まりない称号を嘲笑と共に戴いている。



さて、朝鮮で「来島通総」が李舜臣にぶっ殺された後、息子である「康親」が跡を継ぐ。
しかし朝鮮半島から帰還してまもなく「関ヶ原の戦い」が起こる。約二十万人近い兵力が激突した結果、豊臣方である西軍が敗北、西軍に組した「来島家」は四国の「来島(現在の愛媛県)」を追われ、現在の九州・大分県の山奥に領地を移される。
間もなく名を「来島」から「久留島」に変え、辛うじて武家として生き残る事となる。


時は流れて1874年、後の児童文学者、「久留島 武彦」生まれる。「来島通総」の直系の子孫である。(画像は玖珠の象徴「伐株山」)


右が久留島 武彦。
彼は日清戦争・日露戦争と従軍している。
約三百年前に李舜臣に上陸を阻まれた来島の末裔が、軍人として朝鮮半島に上陸し、朝鮮を中華から独立させているという歴史の皮肉に、海の底の李も苦笑いしている事だろう。



来島一族リベンジ完了



さて、日清戦争中、久留島は戦地から日本の出版社に作品を投稿、これが好評を博し、なんと戦争中に連載している。こうして戦後、彼は児童文学者としての道を歩き始め、様々な功績を残す。



彼は「日本のアンデルセン(Hans Christian Andersen)」と呼ばれているのはこんなエピソードがあるからだ。
1924年にデンマークで行われたボーイスカウトの世界大会に日本の団長として参加、アンデルセンの生誕地であるオーデンセ(Odense)を訪れた時にアンデルセン博物館の一部が物置に使われている事や、アンデルセンの墓が手入れもされずに放置されている事を嘆き、英語が堪能だった彼は地元メディアに対して、「デンマーク人は200年経たないとアンデルセンの偉大さに気づかないのか」と厳しい言葉で訴えた。
そのインタビューは上記のように新聞記事となった。

見出しは「日本人の訴え」である。
「オーデンセを訪れて良かったか?」という記者の質問に対して、「失望した。デンマーク人はデンマークを世界に知らしめた偉人に対してこのように粗末に扱うのか」と厳しい返答をする久留島に対し、デンマーク人の記者は意外にも最後をこう締めくくった。


『彼の国は亡き人に対して我々より尊敬と配慮の念を持っている。我々はまさしく、彼と彼の言葉を肝に銘じて学ぶべきではなかろうか。』


この記事が反響を呼び、彼は行く先々でアンデルセン顕彰の設立を訴え、デンマークの人々に大きな感銘を与える事になる。彼の事を「日本のアンデルセン」と呼ぶようになったのはデンマーク人達であった。


やがて、オーデンセを中心にアンデルセン再評価の声があがり、アンデルセン関連の施設は全面的に改修・保存されるようになった。
この功績と日本国内での児童文化事業の業績がデンマーク政府から認められ、後年、デンマーク国王よりダンネブロウ四等勲章が授与されている。(日本でも紫綬褒章を受けている。)





韓国の英雄とやらもまた決して無能だったわけではない。
戦力的不利を理解し、決して正面から戦わず、自分の領域から出ずに入ってきた日本軍を入り江に追い込んで背後から攻撃する、という戦略眼のある人物であった事は間違いないだろう(最後は深追いして島津軍と向き合ってしまった時点で彼の命運は尽きたわけだが)。

しかし今や彼はもう政治的思想や民族主義的価値観を付加されまくった「国策英雄」にすぎない。等身大の評価を得られる日は来るだろうか。








「と、まぁ、偉人を掘り下げて行くなら、これぐらいやらんとな。途中から韓国の英雄なんてどうでもよくなったろ。」




「あんた、幽霊のクセにメチャメチャ詳しいわね。」




「久留島 武彦は童話の語り歩きもやってたが、戦意高揚の演説とかもやってたしな。オレ見た事あるもん。」




「でもなんか不思議ね。歴史の中の細い糸が巡り巡って繋がっているなんて。ところで韓国の英雄サンの子孫はいないの?」



「うん?聞かないね。確か息子はいたようだが。日本軍撤退直後はチヤホヤされたようだが、基本的に妬みの激しいお国柄、一族は滅亡したんじゃなかったっけ?」



「なんだ、調べてないの?全然ダメじゃん



「オマエが持ち出してきたテーマを捕捉してやったのに・・・!」








『韓国の英雄と大分県の偉人(後編)』 終わり




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  1. 2006/06/20(火) 02:21:30|
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韓国の英雄と大分県の偉人(前編)




「今回はちょっと季節外れだけど、あんたに大分の偉人とその人に関連した少し変わったお祭りを紹介するわ。」




「なんだ?端午の節句か?二ヶ月遅ぇよ。」




「まぁそう言わないで見てみてよ、面白いから」








『日本童話祭』
「五月五日を『こどもの日』として祝日にしよう」と、提唱したのはこのおじいさん。

「日本のアンデルセン」とも呼ばれた児童文学者の久留島 武彦(くるしま たけひこ)


童謡「夕やけ小やけ」の作詞者でもある彼が生まれたのが大分県の玖珠町。玖珠町では久留島 武彦の功績を記念して毎年五月五日に「日本童話祭」という祭りを行っている。


意外にも「こどもの日」が制定されたのは戦後だ。そして1950年、「こどもの日」発足と同時にその功労者「久留島 武彦」を記念して第一回日本童話祭が開かれ、今年で57回目を迎えた。
九州の山奥の人口2万人程度の田舎で行われる祭りだが、少し紹介してみたいと思う。

IMG_2256_1_2.jpg
まず最初のイベントととして「童話祭」のテーマに基づいた仮装パレードから始まる。


くまのプーさんに目が行ってしまうが、狙っているのだろうか・・・。ちなみにVSGとは”Volunteer Service Group”の略で、普段は老人ホームや障害者施設などで、ボランティア活動をしているそうだ。全員が手話を学んでいるらしい。実はなかなか感心な女の子達なのだ。

IMG_2266_2.jpg
東洋・西洋の妖怪の皆さん。グレーに塗ったダンボール箱をかぶっただけの「ぬりかべ」が最高だったが、撮影するのを忘れていた・・。心残りだ。

IMG_2268_2.jpg
A国の黒ねずみさん達。こども達のふてぶてしい顔が忘れられません。この団体、何か賞を貰ってました。


全身ツッコミどころ満載なお方。歌の先生のようでこの後、ステージで歌っておられました。


A国の101匹の犬。実際は11匹だったが個人的に一番気に入ったグループ。この格好で元気よくブランコで遊んでいた。「頼むから子供達を犯罪に巻き込む事だけはやめてくれ」心からそう思う。

IMG_2282_2.jpg
パレードのゴール地点がメイン会場。孫悟空に扮した町長のハイセンスな駄洒落が炸裂している。町長、すみませんがそれ、ウケてるんじゃなくて失笑だと思うのですが。またその他、「久留島 武彦」の偉大さについて延々とご教授。(しかし僕の方が詳しい。それについては次のエントリで)


この広場や、町中の公民館などの施設を使って演劇・人形劇・紙芝居など様々な催しが行なわれる。まさに町を挙げてのイベントである。

IMG_2337_1.jpg
メイン会場から少し離れた河川敷会場では驚異的に大きな鯉幟が翻っている。

IMG_2327_1.jpg
尻尾を掴もうとする子供達とその大きさを比べれば、その巨大さがわかっていただけるかと思う(ちなみにドイツへ行った鯉幟はこれではありません。)

koi2.jpg
地上にはもう一匹鯉幟があり、こちらは中をくぐれるようになっている。

IMG_2310_1.jpg
こいのぼりの中を通るなんて滅多にできる経験ではないのでなかなか楽しかった。

IMG_2302_1.jpg
陸上自衛隊玖珠駐屯地からの参加。うどんを作ってます。自衛隊の食堂は人気。


この「日本童話祭」、安定した集客力はあるものの、さすがに六十年近くやっているとマンネリ化してしまうようで、いろいろ悩んでおられるようです。
個人的にはこういう小さい町の小さいイベントは大好きなんですけど。九州の山奥の小さなお祭りのお話。







「どう?大分県って意外と偉人が多いのよ。」




「ガハハハハハハハ!
それで終わりか、小娘の調査能力ではこれが精一杯のようだな!」


「何その言い方・・・。ブン殴っていいですか?」




「良かろう、それではオレが「久留島 武彦」についてネット上には無い話をしてやろう。」





『韓国の英雄と大分県の偉人(前編)』 終わり

韓国の英雄と大分県の偉人(後編)につづく





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  1. 2006/06/19(月) 21:40:25|
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世にも悲惨な小便小僧


ベルギーのブリュッセル市庁舎にある「Manneken Pis (マネケン ピス)」。
直訳すると小便人形だが、それだとフツーにキモイということか、日本語では「小便小僧」と称して有名である。
由来は諸説あるが、敵が城壁を爆破しようとしかけた爆弾の導火線を小便をかけて消し、町を救った少年「ジュリアン」の伝説が広く知れ渡っている。普通人の発想なら小便かける前に足で踏み消すと思うのだが、そこがジュリアン君の偉大(?)なところである。

以来彼は600年間、人前で放尿し続けるという罰ゲームにも似た宿命を背負い続けてきたのである。


「助ケテ下サイ・・・。」







だが日本にも過酷な運命を背負った「小便小僧」がいる


IMG_2456_1.jpg
四国、徳島県の山中にいる「祖谷渓(いやけい)の小便小僧」である。
その昔、この渓谷を通る旅人が、崖に突き出た岩の上から度胸試しに小便をした、という逸話からここに小便小僧の像が建てられた。
以来、山奥の断崖絶壁の上で終わりなき度胸試しをさせらているのである。
ちなみに放水機能はない。

IMG_2457_1.jpg
しかしよく見ると頭の上にさい銭が。柵を越えてそこまで行くなら、小僧の頭にかかった鳥のフンを拭いてやれよと思うのだが。


「オシッコが出ないよう・・・。」







だがもっと悲惨な宿命を背負った者がいる


ベルギーのジュリアン君の近くにいる「小便少女」である。


アカンでコレ。(注:クリックしても画像は大きくなりませんw)
何この放尿羞恥プレイ。しかもこれ、なんらかの由来があるわけではなく、小便小僧ジュリアン君の人気にあやかろうと、地元のレストランのオヤジが勝手に造ったというから始末が悪い。
現在はイタズラ防止の為に柵が設けられているそうな。なんでも少女の「放水」を飲もうとする悪ガキの後が絶えないとか。
ま、当然の結果だな。


笑顔モ疲レマシタ・・・。




彼らに比べれば我々の苦悩などちっぽけなものである。
あと余談ですが「小便少女」でグーグル検索かけたりすると、どえらいサイトにヒットしてしまうので自己責任でお願いします。



『世にも悲惨な小便小僧』 終わり



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  1. 2006/06/18(日) 20:07:56|
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ウオォォォッ大和ォォォォァァァッッ!!




「ウワーッハッハッハッハッハッ!」
「ウギャァーッハッハッハッハッハッ!」


「何この下品な滑り出し・・・。
それになんちゅータイトルだ・・・。」



「ゥオワァーッハッハッハッハッハッ!!」
「オラーッ、とくと見んかーい!!」





IMG_1069_1.jpg
広島県呉市にある「大和ミュージアム」
メディアにも度々取り上げられ今更という気もするだろうが、映画「男たちの大和」で使われた「第二主砲塔」などのセットが廃棄されずに「大和ミュージアム」に委譲、保管展示されるかもしれないという事で、支援の意味でのエントリ。

IMG_1022_1.jpg
(クリックしてその勇姿を確認セヨ!)
「大和ミュージアム」はいよいよ来場者数200万人に手が届きそうである。このテの博物館では異例ともいえる。民族の名を冠した唯一無比のこのフネはその悲劇的な運命と相まって未だに根強い人気があるようだ。

IMG_1038_1.jpg
来場者の年齢層は幅広い。恐らく父親に連れられて来ただけであろう子供達も初めて見る「大和」や「ゼロ戦」に度肝を抜かれているようだ。「スゲー、スゲー」と繰り返す子供に、「本物はもっとデカイんだ」と若い父親が笑って答える。


決して戦争を賛美しているわけではない。戦争も死も敗北も全て僕達の歴史、歩んできた足跡だ。自分に繋がる歴史を記録し記憶する事は人格形成に大きな影響を与える事だろう。「日本は偉大だ」と単純に思うも良し、「戦争は嫌だ」と単純に感じるも良し。どう受け取るかはその人次第だ。


「大和ミュージアム」にはその他にも様々な展示や企画が催されているが、正直、史料も資料も豊富とは言い難い。あきらかに無駄なスペースもあり、今後とも資料収集に尽力してもらいたいものだ。


漫画家、松本零士氏の「アナライザー」。
やや違和感を覚えるが松本零士氏のこれまでの「大和」に対するリスペクトを考えるなら許容範囲である。以前、氏の「大和」及び「宇宙戦艦ヤマト」に対する思いを語ったインタビューを見た事があるが、フネや海の男達に対する純粋な愛情と日本人としての自負心が垣間見えた。

IMG_1057_1.jpg
(↑さぁ、クリックしてもう一度目に焼き付けるのだ、その勇姿を!)
他にもたくさんの展示物があるが、写真の公開はここまでにしておこう。後は実際に見に行って欲しいのです。
余談ですが、ミュージアムの場所がわからず車を止めて地図を見ていると、地元、呉のおじいさんが話しかけて来て丁寧に教えてくれた。慣れているようだ。「大和ミュージアム」が呉の観光の中心になる事を感じていたのかも知れない。




「ククク・・・。我が帝國海軍の威光、衰えを知らず。驚いたか、チビ助!




「すごいねー。でも船のあの一番高い所まで階段で登るのは大変ねー。」




「一番高い所?艦橋か?艦橋まではエレベーターで上がるんだぜ。」




「当時エレベーターなんてあったの!?イメージないなぁー。
日本兵ならはしごで登って行きそうじゃない?」


「ナメてる・・・お前は絶対オレ達の世代をナメてる・・・。」





『ウオォォォッ大和ォォォォァァァッッ!!』 終わり


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  1. 2006/06/17(土) 15:55:49|
  2. 戦争の記憶
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鍋焼きプリン??

20060616193023
ブログの本筋から少し離れるが高知を訪れた際に少し気になった一品について少し。

鍋焼きプリンである。
プリンを鍋焼きにしたのかと、期待せずにはいられないネーミングにトキメくのは無理もない事である。

これは高知県須崎市の名物「鍋焼きラーメン」からヒントを得たものらしい。

何故ラーメンを鍋焼きにしたのか?全くもって不明である。鳥ガラベースのしょうゆ味のスープ、麺は硬めの縮れ麺で、確かに独特の味わいがある。九州では味噌ラーメンやしょうゆラーメンを食べる機会がほとんど無い為(九州では「ラーメン」を頼むと普通にとんこつラーメンが出てくるわけだが)、非常に印象に残る味ではあった。

いやいや、鍋焼きプリンの話しであった。
実際に鍋焼きにしているわけではなく、見た目を鍋焼きラーメンに模しただけの
普通のプリンである。麺に見える部分はマロン。味自体は甘さひかえめで美味しゅうございました。

これはアイデアの勝利である。「鍋焼きラーメン」という異色の食べ物をさらに上回るかのような「鍋焼きプリン」というネーミングコンボに我々はしてやられたのだ。
しかしこのお店、「一文字」もよほど儲かったのだろう、寂れた須崎駅前商店街の中でこの店だけが光り輝いておった。

ちなみに「鍋焼きタルト」なる一品もあったがこちらも大変美味でございました。無論、鍋で焼いたわけではない。プリンやタルトが鍋焼きラーメンの形でなければならない理由は
誰にもわからないが、話題性を作り出すこのアイデアこそ地方に必要なのだ。

「おのれ、よくぞこのワシをたばかった!」と言いながら、鍋焼きラーメンの形をした
普通においしいプリンを平らげる2006年、初夏の高知であった。


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  1. 2006/06/16(金) 19:30:23|
  2. 知られざる日本
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「昭和の町」豊後高田市

title_1.gif


おっ?今度は俺の時代の話か?




残念でした~。今回は豊後高田の「昭和の町」でーす。ここは昭和30年代(1955〜)をコンセプトにしているので、ちょうどアナタの子供の世代じゃないかしら。



へぇ。俺が死んだ後の世代の文化か、面白そうだ。







国東半島、大分県豊後高田市


僅か10年前まで「犬と猫しか歩かない」「シャッター通り」といわれ、もはや消えるのを待つばかりだった商店街の逆転劇を観るようだった。


寂れた古い商店街など何処にでもあるが、それを逆手に取り、市を挙げて取り組んだ「昭和の町」計画は予想以上に反響を呼び、当初、年間5万人の観光客を見込んでいたが、今や年間20万人が訪れる観光地となった。


ハード面への巨額投資による再開発ではなく、本来持っているソフト面を重視し低予算で町を復活させたこの計画は、成功というより奇跡と呼ばれ、度々メディアに取り上げられる。


特に福岡のおもちゃコレクター小宮氏の誘致は「昭和の町」のコンセプトを明確に決定づけた。
小宮氏は日本全国でも有数のレトロアイテムのコレクターで、早い話が「オタク」なのであるが、駄菓子屋に憧れ、駄菓子屋の資料館を造り、自らも駄菓子屋になってしまったという神的オタクである。

市長自ら「一種の企業誘致のつもりでやった」と後に語るほどの熱のこもりようで、小宮氏は遂に豊後高田市に移住を決意した。
古い蔵をそのまま利用した「駄菓子屋の夢博物館」は今や「昭和の町」の中核である。

bt01.jpg
ここには日本の豊かなサブカルチャーが溢れている。


これ全て個人所有。しかも全部は入りきらなかったというから恐るべし、日本のオタク。


しかし、さすがにやや高い世代向けだろうか・・・。


と、思っていたら、「ゲームウォッチ」キターーーーーーー!
もはや1970年代生まれの思い出もしっかり「昭和」に組み込まれていた。


これ「チョロ獣」。え?知らない?ほら、「ミニ四駆」ってのがあったでしょ、アレの前に「チョロQ」ってのがあって・・・いや、長くなるのでやめておこう。


今は別の企画展示が行われているかも知れないが、「昭和の小学校」という展示があった。廃校となった小学校の備品をそのまま使っているので机や黒板に小学生達のアホな落書きが残っていて笑った。机にあいた穴でゴルフコースが造られているのを見ると、子供の頃に考える事は大差ないんだなぁと思わずニヤリ。
50代と思われる女性が興奮してあれこれ思い出話をしていた。この人達の世代だ。少女時代を鮮明に思い出しているのだろう。

IMG_1896_2.jpg
併設する駄菓子屋も普通に営業中。地元の子供達も学校帰りに立ち寄る。(前述の小宮氏はいつもここで古い歌をガンガン掛けながら店の前で古いタバコを吸っているイメージがある。とても気さくで話好きな人なので訪れた方は、話しかけてみては如何だろうか。)


当初は、突然、観光客が訪れるようになった事で豊後高田市の人々が逆に驚き、県外からやってくる観光客を珍しそうに見ていた微笑ましい時もあったが、いつまでも成功の余韻に浸ってもいられない。
今はまだ、「昭和の町」はほんの一画で行われている印象だが、幸いな事に出店希望者が多く、周辺の商店街を巻き込んでまだまだ成長していく事だろう。





昭和30年代という微妙な古さを上手く突いたっつー感じだな。大型量販店に叩き潰されるばかりの商店街がアイデアで成功した稀有な例だろう。



あら、意外とクールな反応ね。もっと「ウオォッ昭和ァァァッ!」とか言って興奮するかと思ったのに。




いやぁ、応援してるさ。もっとこうドップリ昭和に浸れるような雰囲気ある街づくりを続けてもらいたいものだ。ちなみに俺、死んだのは昭和だけど、
ギリギリ大正生まれなんだよね。


え、そう・・・。そういえば私は平成生まれだったわ。昭和生まれは管理人だけ?




そうか・・・。よく考えたら、「激動の昭和」生まれはこの先、減る事はあっても増える事は二度とないんだよな・・・。
よし、ここは昭和生まれにシメてもらおう。管理人、召還!



こんばんわ、豊後高田生まれの昭和生まれです。すんません、オチが思いつきません。




誰?




「昭和の町」豊後高田市 終わり


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テーマ:大分県情報 - ジャンル:地域情報

  1. 2006/06/15(木) 23:35:15|
  2. 知られざる国東半島
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国東の奇祭「ケベス祭り」




なんだコレ?どこへ行って来たんだ?




えへへ、スゴイでしょ?これは国東半島の国見町のトンネルにある「ケベス祭り」のレリーフよ。




「スケベ祭り」だと!?
何だ!?その期待せずにはいられない祭りは!?


「ケベス祭り」よ、「ケベス」







大分県国東半島に、およそ1000年程前から伝わると言われる奇祭「ケベス祭り」。旧暦の9月に行われる為、本来は「九月祭り」と呼ばれていたが、1962年より新暦10月に行われるようになった為、現在は「ケベス祭り」という呼び方が一般的である。


「ケベス祭り」が行われる国見町の櫛来岩倉社(くしくいわくらしゃ)境内。この祭りの起源は全く不明で、その由来を示す文献は存在せず、ただ儀式のみが伝えられてきた不思議な祭りだ。
1100年前にこの社が開かれた時点で既に主要な儀式の一つに組み込まれていて、その為「ケベス祭り」自体はそれ以前からあったのではないかと言われてる。
「ケベス」という言葉の意味も不明で、「エビス(夷)」の訛ったものではないかという説が有力であるがそれもただの憶測にすぎない(祝詞の中では「蹴火子(Kebesu)」という漢字が当てられている)。


この地域を十の組に分け、毎年順番に一つの組が「当場(トウバ)」となってこの祭りを執り行う。
まず10月7日までに神主の麻糸による「吊りくじ」で、
「オカヨ(神への供え物を調える役)」、
「オカヨのスケ(オカヨの助手)」、
「杜氏(甘酒造りの役)」、
「杜氏のスケ(杜氏の助手)」を選ぶ。

「当場の組」は火祭り用のシダを準備、そして、「神穂屋(かむほや)」という祭壇を座敷戸口に造る。

10月9日、午前7時に「宮下り」。これは神様を神社から当場元へとお連れする儀式のこと。この日から「オカヨ」は毎朝「潮かき(海に入り潮水をかぶる)」を行い、当場組一同は「精進」の生活に入る。

この精進生活の要点は「他人と火を交ぜない」事。

これは当場以外の人が作った料理などを口にしてはならないという意味で、この時期の当場の男子は学校や職場でも自宅から持ってきた弁当だけを食べることになる。
自動販売機でジュースを買う事も、他人にタバコの火をつけてもらう事も禁止。

当場で取れた野菜や魚などを中心とした精進料理になるようで、成人男性だけでなく当場の男子は幼児から大人までが対象というから厳しい。
この禁忌を犯した者は祭りに参加できない事になっていて、当場として祭りに参加できるのは十年に一度である為、皆さん必死で守るようだ。

10月13日、午後、男子全員揃って「潮かき」。そのあと神官から祝詞を受け、お供えようの餅をつき始める。

10月14日、「ケベス祭り」の儀式の中で最も有名なのがこの14日に行われる「宵祭り」。
この日、午後二時、「宮上せ」。当場元に下っていた神様を今度はお供え物と一緒に神社へとお連れする儀式。
午後6時、男子全員「潮かき」をして身を清める。

午後7時、当場の神人が拝殿前に整列、

本殿の中で神官の祝詞の奏上が終わると「神官」から「ケベスドン」に「ケベス面」が着面される。



WRYYYYYYYYYYYY!!!

と言ったかどうかは知らないが、「ケベス祭り」のクライマックスシーン。


差又(さすまた)を担いだケベスは神域を一回りすると、庭火に向かって突き進む。それを当場の神人が差又で受け止め押し返す。
二回目も同じ動作を繰り返し、三回目の突進で庭火に差又を突き入れ、火を掻き回す。


この一連の所作を三回繰り返し、合わせて九回目の突進で遂にケベスは火の中に飛び込んで火を跳ね上げる。
すると、火を守っていた当場の神人達も火のついたシダ束を差又に突き刺して見守っていた参拝者達に遠慮なく火の粉を浴びせ始める。
火の粉を浴びた者は無病息災になると言われているが、撒き散らされる火の粉が半端じゃないので狭い境内には悲鳴と絶叫、笑い声と拍手がこだまし、祭りは最高潮を迎える。
(帽子は必須、焼けてもいい服を着てくるようにと広報されており、また神殿前の階段が安全地帯とされている。どうしても怖い人はそこに案内される。)

この後、ケベスは神官につれられ「ケベスの託宣(豊作かどうかの占いのよう)」という儀式を行った後、面を外され、再び封鎮される。

10月15日、本祭。本殿で神事が行われ、神輿は浜殿から本殿に還御し門が閉じられ全ての神事が終了する。




これが国東半島で最も奇妙な祭りと言われる「ケベス祭り」の概要よ。ちょっと驚いたでしょ?




た、たしかに奇怪且つ理解しにくい祭りだな。神道やら仏教やらいろんな要素が混ざってるように見えるが。「ケベス」と「トウバ」が「火」を巡って争うってトコが鍵なんだろうな。



史料がないのでなんとも言えないわ。文字を持たない時代にこの地域で何かが起こった。それは人々に強い印象を残し、儀式として保存され、時代を重ね、様々な宗教観を加えながら今日の形になったと思う。
ケベスとは何者か、どんな意味があったのか、渡来系と土着の民の争いを表現したのか、漁民と農民の衝突という説もあるし・・・。
遥か古代に何が起こったのかは、今はもうわからない。全ては推測でしか語れないの。


うぅ~ん、「神」「仏」「鬼」、その何れもが善にもなり悪にもなり、入り混じって何かを伝えようとしてくる・・・。日本て不思議な国だよなぁ。



幽霊のあんたも充分不思議だよ・・・。






IMG_1940_1.jpg
国見町の資料展示館にある「ケベス面」の精巧なレプリカ。造形は稚拙で正面から見ると歪んでいて実に醜悪だ。「ケベス」なるものが決して歓迎されたものでない事が推察されるが、神事においては収穫の占いをする重要な役を与えられているのは全く不可解である。

余談だがこんな伝承がある。
昔、ケベス面が余りに醜く稚拙なので形を整えようとノミを入れたところ、面から血が出てきたというのだ。
現実的には有り得ない話で、恐らく先人達が本来の形を後世になっても崩さないように戒める為に作った話だと思われる。

こうして「ケベス祭り」は千年以上の間、現代にまで伝えられてきたのである。
(注*国東半島は瀬戸内海海路上の拠点であり、古代より大陸の呉の国、または朝鮮半島南部からの渡来を伺わせる伝承がいくつかある。また、宇佐神宮とも繋がりが深く、神功皇后の三韓征伐に纏わる説もある。が、「ケベス祭り」との関連性は全て推測の域を出ない)



国東の奇祭「ケベス祭り」 終わり

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  1. 2006/06/15(木) 00:07:15|
  2. 知られざる国東半島
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日清講和記念館・後編




さて、下関から「日清講和記念館」のお話、後編。
朝鮮の全羅道で発生した「甲午農民戦争」、農民軍が朝鮮政府軍を次々と打ち破り、首都・漢城(ソウル)にまで迫ると、朝鮮王は宗主国、清国に救援を要請、「天津条約」に基づき日本軍も出兵(朝鮮側が依頼したという形だが、半ば日本の圧力)、朝鮮半島内で朝鮮政府の依頼によって敵対する日清両軍が朝鮮農民軍の鎮圧を別個に行うという、異常事態に陥った「朝鮮半島1894」。


今回は前フリから長いわ・・・。





nandaimon1896.jpg
両軍が本気である事を知った朝鮮、慌てて事態収拾に乗り出し農民軍と和解し、両軍に撤収を求めるわけだが、「朝鮮の動乱は収まっていない」という理由で両国とも駐屯を続ける。

20060613143737.jpg
「朝鮮の内政改革を日清両国で行おう」という日本側の提案を清国が拒否、さらに大軍を半島内に進め、7月25日、豊島沖(現在の京畿湾)で遂に日清両艦隊が交戦、8月1日、両国は互いに宣戦を布告、日清戦争が始まる。

20060613144847.jpg
清国側の宣戦布告文。


簡単に要約すると「朝鮮は伝統的に清の属国で、内乱が起こる度に清が助けてやった。朝鮮人は清国を上国として敬っており、関係は良好である。が、今倭人どもが両国間を引き裂こうとしている」ってな感じだな。
戦争前の交渉では「朝鮮は独立国で清国は内政干渉していない」と主張し、日本を翻弄していた清国、ついに中華思想の本音を吐き出したわけだ。


20060613134435.jpg
黄海海戦時の日本海軍。
動員兵力は日本軍約24万、清国軍約98万とも言われている。海軍は当時、日本が保有していなかった戦艦2隻を清国は保有しており、開戦前は「清国有利」と世界中がみていたが、実際に始まると日本軍が陸戦・海戦で清国軍を悉く撃破、瞬く間に朝鮮半島全域から清国軍を駆逐する。

20060613134606.jpg
平壌での戦闘後の捕虜になった清国兵。

20060613134359.jpg
手前が日本兵、白い服が朝鮮人、左端に清国捕虜。当時の三国の関係が微妙に伝わってくる写真。

yizhou.jpg
「日本の方が強いニダ!」。日本軍と共に記念撮影、さっそく事大開始。

こうして1895年3月には遼東半島全域を制圧、体勢は決し、4月、講和条約締結に到る。

IMG_0754_1.jpg
その講和条が締結された場所が此処、山口県赤間関市(現在の下関市)の旅館「春帆楼(しゅんぱんろう)」。

IMG_0736_1.jpg
現在の「春帆楼」。「日清講和記念館」が併設されている。入館料は無料だ。

IMG_0756_1.jpg
交渉が行われた部屋。

IMG_0761.jpg
当時の調度品なども保存、展示されている。

IMG_0751_1.jpg
ここで結ばれた講和条約、現在は「下関条約」と呼ばれる事が多いが、締結当時はまだ「下関市」ではなく、赤間関の略称として用いられていた「馬関(ばかん)」にちなんで「馬関条約」と呼ばれていた(中国では現在も「馬関条約」)。

この条約で「清国の朝鮮の独立の承認」「台湾の割譲」など、東アジアの勢力図が大きく塗り変わる事になる。


条約交渉中に清国全権の李鴻章が暴漢に襲撃されるという、日本人としては恐ろしくも恥ずかしい事態が発生している。

_1.jpg
その後、李鴻章の安全の為に通った裏道は現在「李鴻章道」と名づけられている。

IMG_0735.jpg






と、まぁこれが「日清講和記念館」に繋がるお話だ。ここまで聞くと一概に「マニアックな場所」とは言い切れないだろう?



へぇ~、ここでアジアの歴史が動いたのね。そう言われると確かにすごいわ。




ちなみに「春帆楼」は「ふぐ料理公許第一号店」でもある。現在も普通に営業中。




すごーーーーい!ふぐ食べたい!



ここまで話してきて一番いいリアクションがふぐだと!?




「日清講和記念館」終わり



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  1. 2006/06/13(火) 15:58:11|
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日清講和記念館・前編




美しい・・・。美しい海峡だ。遠くからみるかぎりはな・・・。




軍国主義の亡霊さん、こんにちは!




よう、盲目的平和主義を狂信する戦後エセ民主主義教育下で史上最弱の世代となった平成日本人。元気そうで何よりだ。



飛ばすわね。で、今日はどこをさまよってきたの?




下関の「日清講和記念館」だ。




またマニアックな所に行ったわね。どういう所なの?




日清戦争を知らなければ此処がマニアックに見えるのも無理はないな。では少し長くなるが説明するからよく聞きやがれ。



あ、長いのね・・・。






keijo54.jpg
時は19世紀末・・・、腐敗した政治、堕落した王族、貧しい人民、・・・既に破綻寸前の朝鮮・・。
こんな生活、やってられないニダ!!

20060612114905.jpg
1894年、全奉準(チョン・ボンジュン)を中心に全羅道で農民たちが蜂起。「甲午農民戦争」(東学党の乱)

無能朝鮮王

「やばいニダ・・・。そうだ、宗主国様に助けていただこう!」


安直に事大主義を発揮


朝鮮事務担当"袁世凱"(属国に派遣される現地指導員)

「大臣、これは朝鮮の保護者は我が国である事を世界に示す好機ですぞ」





北洋大臣"李鴻章"(属国管理人)

「確かにそうだけど天津条約があるんだよね。日本が出てきちゃうよ」





湖南・湖北総督

「しかしベトナムを失った今、朝鮮を失うわけには行きませんぞ」





清国の重鎮の皆様

「小日本など何を恐れる事があろうか。日本と決戦し朝鮮の真正な宗主国が誰なのかを天下に示すべし!!」





「まぁ確かに僕の北洋艦隊がいれば、小日本如きには負けないけどね、PU!」





「陛下、ご決断を」





大清皇帝"光緒帝"

「ホルホルホル・・・決戦じゃ!倭人どもを蹴散らし、朕の威光を天下に示すのじゃ!」




一方、太陽の帝国




陸奥宗光外相

「閣下、アホの清国が半島に出兵いたしました!」



伊藤博文首相

「天津条約を知らぬわけではあるまい。清国は決戦を覚悟したようだ。しかし朝鮮にも困ったものだ、あれほど朝鮮は独立国だと教えていたのに自ら清国を引き込むとは・・・。」



「自ら宗主国を求めているとしか思えませんな。近代国家の概念を理解していないのではないでしょうか。」




「まぁ“近代国家”も“概念”も日本が造った言葉だからね。文盲率も高そうだし」




「ワロタ。教育の無い国に希望はありませんかww」




「まぁ“教育”も“希望”も日本語だからねぇ。」




「ちょwwww閣下wwwww」



20060612124659.jpg
そんなこんなで清国軍、半島に登場。朝鮮百姓軍の鎮圧を開始。(中国馬兵)

20060612125009.jpg
「天津条約」及び「済物浦条約」に基づき、日本帝国軍登場。朝鮮百姓軍の鎮圧と邦人保護を開始。

korea7.jpg
怯える朝鮮族、なす術無し






こうして朝鮮半島の動乱鎮圧に日清両軍が展開するという異常事態になったわけだ。まさに日清戦争前夜ってやつだな。



なんだか個人的感情がもりこまれているような・・・。ところで衝突を回避する方法ってなかったの?




戦後民主主義を代表するような模範的な質問だな。
事、此処に到るまでに日清両国間で何度も交渉は続けられていた。朝鮮を華夷秩序から切り離そうとする日本と、朝鮮を属国として繋ぎ止めようとする清国、辛うじて保たれていた均衡は、上記のように朝鮮で勃発した動乱によって崩れてしまった。そして、本来、同民族で決着をつけるべき内乱に、安易に外国勢力を引き込んだ李氏朝鮮は国家運営能力の欠如を露呈する事になる。


「国家運営能力の欠如」・・・凄い言葉ね。




関連スレは此処。http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=54319&st=writer_id&sw=shidenkai
画像が出にくいので何度かF5を押せ。


やっと前編終了ね、長かったワ~。
でも長い割には内容がないような・・・。



ナイヨウがナイヨウ!?



「日清講和記念館・後編」に続く


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  1. 2006/06/12(月) 13:58:37|
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赤間神宮・源平合戦最後の地


山口県下関市にある「赤間神宮」。
ここは元々は「阿弥陀寺」というお寺だったのだが、明治に「安徳天皇社」、1875年に「赤間宮」、1940年に「赤間神宮」と名称の変遷があった。

1185年の「壇ノ浦の戦い」で二位ノ尼に抱かれて入水された、当時8歳の安徳天皇の遺体は御裳川で引き揚げられ、「阿弥陀寺」(現在の赤間神宮)に埋葬された。

赤間神宮は大戦時の空襲で社殿を焼失しており、現在の社殿は1965年に再建されたもの。その為か極めて新しい印象を与える。

IMG_0431_1.jpg
「水天宮」からみた社殿。

IMG_0406_1.jpg
丁度、結婚式が行われていた。邪魔にならないよう遠くから撮影させてもらった。

IMG_0418_1.jpg
雅楽と巫女さんの舞が始まる。

NEC_0179.jpg
と、まぁ、申し訳ないがこれが目的ではない。僕の目的はこの奥だ。

IMG_0409_1.jpg
「平家一門の墓」!

IMG_0412_1.jpg
日本史上最強の怨霊を生み出してきた平家一門の墓。
墓参りには慣れているはずの僕も、ここはさすがに沈黙。

IMG_0411_1.jpg
その平家一門の墓の前で平家の無念を鎮めるかのような「耳なし芳一」の像。その表情のリアルさに畏れおののけ。「阿弥陀寺」というのは「耳なし芳一」が活動していた場所でもある。

IMG_0434_1.jpg
そしてすぐ隣に別の建物として「安徳天皇陵」がある。普段は一般公開されておらず、門にある菊の紋章の隙間から垣間見るしかできない。
さすがに平家の墓を見た後では無茶はできない。ここで撤収。

5月2~4日に行われる「先帝祭」はかなり豪華絢爛で見ものらしい。来年は是非行ってみたいなぁ。
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  1. 2006/06/11(日) 16:08:12|
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紫電改に会ってきた


愛媛県南宇和郡愛南町の「南レク馬瀬山山頂公園」にある「紫電改展示館」に行ってきました。
以前から行って見たかった場所なんですが、松山や高知からも遠く、気軽に行ける場所ではなかった為、これまで見送ってましたが遂に行ってきました。


何があるかというと↑コレ。「紫電改(紫電21型)」
1945年7月、広島・呉方面を攻撃した連合軍戦爆混合隊約500機を豊後水道上空で捕捉、21機の紫電改が迎撃に向かった。
わずか十分間で敵機16機を撃墜するも数的不利は如何ともし難く、6機が未帰還となる。


1978年11月、愛媛県南宇和郡城辺町久良湾の海底 40mに戦闘機が原型を留めたまま沈んでいるのを地元のダイバーが発見。
これが豊後水道上空戦で未帰還機の一機である事が確認される。
1979年7月、愛媛県によって「紫電改」の引き揚げが行われた。


御覧の通りの有様。


曲がったプロペラ、穴だらけのボディ、抜け落ちたフラップ、発見当時の姿を極力残した状態で復活。


お尻。


お腹。ポッチャリしている。


ゼロ戦ほどスマートではないし、疾風ほど洗練されたデザインではないものの、この武骨な感じがまたいい。
(興味の無い人は違いが全く判らないらしい・・・。)


発見されたのは展示館の目の前の海。今はとても静か。


この類の展示館の類例にもれず写真撮影禁止という噂があったが、実際は撮影制限はありませんでした。
また入館料も無料。良心的だ。
代わりと言ってはなんですが、「紫電改グッズ」全て買いました。


写真の「紫電改太鼓」という取って付けたような土産用のお菓子が意外に美味しくて好評。
また、紫電改の引き揚げ写真は展示館で販売されているのですが、なんと生写真。
アイドルの生写真ではしゃぐ女子中学生の気持ちが少し理解できましたw




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  1. 2006/06/09(金) 15:02:54|
  2. 戦争の記憶
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本州の西の果ては「韓流」



「本州最西端」というポイントがあるらしい。甚だビミョーなポイントだが、見た事が無いよりは見ておいても損はないだろう。


そんなこんなで海峡越え。


橋は料金高いので海底トンネルで久々の本州上陸。


トンネル最深部。同行者が撮影。


下関到着。ここから張り切って北上します。


途中、吉母海岸の近くで降りてみました。


これが本当の「韓流」。
日本や中国、台湾のゴミより目立ってます。


ああ、そうですか。


本州最西端を目指す旅はまだ続く。山道をさらに奥へ奥へ。


ドッギャアアアン!
着きました。本州の西の果てに到着です。


これが本州の西の果てか・・・。ふーん・・・。


ふ・・ふーん・・・。


終了!

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  1. 2006/06/05(月) 18:48:07|
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宇佐の五百羅漢



大分県宇佐市の東光寺にある五百羅漢。干害に苦しむ人々の為に1863年から約20年かけて521体の羅漢像が造られました。
東光寺は非常に小さいお寺なので見つけるのに一苦労します(確実に)。
五百羅漢自体は日本中にありますね。でも大抵は苦悶の表情を浮かべています。羅漢とはそういうもののようですが、宇佐の五百羅漢は「美・笑・醜・渋の四面相」があると言われています。確かに一体一体個性があり、知人によく似た羅漢もいたりします。

パノラマで見る五百羅漢↓こういうページつくる人、素敵。
http://panorama.photo-web.cc/tiiki/usa/500rakan.html

滅多に見れない五百羅漢の後頭部。


ただ正直に言いますと少し怖いですね。客が無言で座ってるステージに立ってるような、妙な「視線」を感じるといいますか、不思議な怖さですね。心にやましさがあるからでしょうか・・・。
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  1. 2006/06/04(日) 17:01:14|
  2. 知られざる国東半島
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秋月士族の墓



今住んでいる場所から車で10分程走った所にある小さな墓地、その墓地の奥に、明らかに周囲の墓と様子の違う墓標がひっそりと建っている。
それは地元の人もよく知らない「史跡」に指定されている。


【戊辰戦争】(1868年~1869年)において旧幕府勢力を完全に粉砕した明治政府はさらなる近代化を断行する。
三大制度改革(学校制度・徴兵制度・租税制度)を効率よく行う為の【廃藩置県】はサムライの存在意義を揺るがし、1876年【廃刀令】そして【秩禄処分】は、まさにサムライ潰しの決定打となった。
目的は、近代国家として正規軍隊以外の武装を解除する事、それは武士階級の解体を意味した。
そして、かつて新政府軍として幕府を倒したサムライ達の反乱が始まる。

【神風連の乱】

1876年10月24日、現在の熊本県で、太田黒 伴雄が率いる「敬神党」約170名が熊本鎮台を襲撃、翌日、鎮圧されるが、政府の軍事拠点が攻撃されるというこの事件は、全国に衝撃を与えた。

【秋月の乱】

1876年10月27日、現在の福岡県で、【神風連の乱】に触発された「秋月党」約230名が今村 百八郎を中心に決起、明元寺の警察官を襲撃した後、同志達と合流する為、豊津に向かうが、豊津の同志は既に拘束されており、小倉から南下してきた乃木 希典率いる歩兵第十四連隊と激しい戦闘となり秋月へと敗走する。


この墓は、この豊津の戦いで戦死した「秋月党」17人の墓である。
こうした散発的に発生した反乱はやがて【西南戦争】という大規模な内戦へと繋がってゆく。

一般的には【神風連の乱】から【西南戦争】までの一連の動乱は、特権を奪われた士族の不満の爆発と見られているし、僕自身もそう思う。
ただ、700年以上続いた「サムライ」が、なんの抵抗もなく消え失せるなんて、それはそれで寂しいと感じる。本物の「最後のサムライ」達の、最後に挙げた存在証明の叫び、サムライの時代の終幕を飾るに相応しい壮絶な歴史を残したのではないだろうか。
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テーマ:史跡 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/06/03(土) 13:09:55|
  2. 幕末維新烈風伝
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宇佐の掩体壕



掩体壕(えんたいごう)
航空機の攻撃から機体を守る覆いです。

第二次世界大戦末期、大分県の宇佐海軍航空基地もまた激しい攻撃に晒されました。


そこで地元学生達の手によって造られたのがこの宇佐の掩体壕です。これは掩体壕内部。


そこかしこに点在。全て違う方角を向いているのがポイントです。


但し現在、ほとんどの掩体壕は地元農家の物置として平和活用。


かつての滑走路は普通の道路になっていた。本来、訓練機が飛び回るこの宇佐基地も大戦末期には特攻基地と化し、154人の特攻隊員が出撃している。
IMG_1750_1.jpg
今はもう、爆音は聞こえない。静かな田園が広がり、ただ鎮魂碑があるだけだ。


人類の戦争史に名を刻んだ特攻隊。今がまさに「カミカゼ」が吹き荒れた時期だ。
熱すぎた時代に、燃え尽きていった幾多の青春の一つ一つに想いを馳せて、今年もまた、暑い夏がやってくるんだ。
usa11a1.jpg

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  1. 2006/06/02(金) 11:42:23|
  2. 知られざる国東半島
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三本の巨塔


長崎県佐世保市の近くにある「針尾電信塔」。1918年から1997年まで使用されていたようです。
1号塔と2号塔は135m、3号塔は137m、山間に聳え立つその姿は異彩を放つ。
低い周波数帯域の電波(長波)を地球大気圏にある電離層の反射を利用し情報を伝達する為、施設は巨大になってしまう。嘗ては真珠湾攻撃の暗号「ニイタカヤマノボレ」も発信されたとか。
ただ初信ではなく、大陸方面に展開する友軍向けに二次発信されたそうですが。
撤去の話もあるそうだが、歴史的な遺物でもあるし、もう二度と造られる事も無いものなので、なんとか保存してもらえないだろうか。

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  1. 2006/06/01(木) 08:49:23|
  2. 戦争の記憶
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プロフィール

コウノスケ

Author:コウノスケ
特攻隊の亡霊クニオと少女サキの
「祖国日本」を知る旅。








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