くにさき画報

死するとも なほ死するとも我が魂よ 永久に留まり御国護らせ

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大分県の方言まる出し標語

大分県国東半島の中腹部にある大田村。
この大田村を通る県道沿いにはちょっと味のある標語が並んでいる。

前々から気になっていたので少し集めてみました。



IMG_2517_1.jpg
何かというと方言まる出しの交通安全標語。
もうなんちゅーか、ウチのおばあちゃんの喋り方そのまんま。
まるでバーチャンから言われてるようで素直に「ハイ」と答えてしまいそうな罠である。
ちなみに↑の「多いい」は意図的に「い」を一つ加えている。
大分弁のねちっこさを見事に表現している。

IMG_2491_1.jpg
怒っておられます。

IMG_2504_1.jpg
ハイ、してますよ。

IMG_2513_1.jpg
してるっちゅーに。てゆうか見とんのかい。

IMG_2493_1.jpg
「前の人に当てないようによく見て走りなさいね。」です。
これで意外にやさしい口調だったりする。

IMG_2502_1.jpg
「なんかなし」というのは「とにかく」と訳していいだろうか。

IMG_2505_1.jpg
国東に年寄りが多いのはわかっとる。

IMG_2501_1.jpg
「そんなに気忙しく走らないでくれ」。「そげぇ」という言葉はホントによく聞いたわ。
「そげーえ」と伸ばすあたりにバッチャマを感じる。

IMG_2516_1.jpg
まぁ大体の意味は判ると思います。

IMG_2518_1.jpg
ププーッ(^з^)このセリフを選んだ人、センスいいw

IMG_2520_1.jpg
この「しゃっち」というのは九州東部で使われる「さっちが」が訛ったものだと思います。
「わざわざ」「いちいち」と訳すのが近いかも。主に相手を否定する時に使う。

IMG_2511_1.jpg
意気込みを語られてます。「しらしんけん」は「すげーマジで」みたいなもん。
「一所懸命」という意味でも使われる。




他にもたくさんありましたが割愛します。
大田村の県道31号線・34号線で見られるので通る事があったら見てみて下さい。
警察が一枚かんでいるのがチト癪に障るが、おばぁちゃんを思い出して懐かしさと笑いが込み上げる不思議な道でした。




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  1. 2006/07/30(日) 19:01:13|
  2. 知られざる国東半島
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偉人・・・でも嫌われ者


誰?
最初は全くわからず、近寄ってみて初めてわかった。
山口県萩市、国道191号線沿い市民球場南側にある山県有朋の銅像。

吉田松陰の松下村塾出身のエリート。
陸軍の大物で総理大臣・元老も勤めた幕末から大正にかけて活躍した偉人である。
が、評判は生前も死後も極めて低い。というか悪い。

随分前に萩市が会津若松市に対して歴史の和解と姉妹都市締結を申し込んだが、
結局破談したというニュースがあった。
なんでもアンケートを採ったら会津若松市民の32%が「今でも山口県にはこだわりがある」と答えたそうで、その後どうなっただろうか。
これは戊辰戦争が原因なワケだが、戦後も続いた長州閥による旧会津出身者に対する非礼な仕打ちが相当に恨みをかったようだ。

その長州閥の中心にいて、露骨に会津を嫌っていたのが山県有朋と言われている。
また、政治・労働運動や自由民権運動の弾圧、ひたすら軍拡を主張したりと悪い評判は枚挙にいとまなし。
首相経験者であり維新の元勲という事で死去した際には国葬が行われたが一般参列者はほとんど無く寂しい国葬だったとか。
大正天皇からもウザッたがられていたというからハンパ無し。

権力欲の権化・元祖軍国主義者でエリート思想、そして地元びいき。
ここまで嫌われていると逆にキャラが立ってくるというものだ。
どうせなら「文句あんなら俺より偉くなってみいや、凡人どもが」とか
名言の一つでも残せば完璧なダークヒーローだったが。

まぁ『偉い=尊敬される』ではない事を証明する偉人さんである。


将来の発展を見越し、東京の道路を広くしたのは山県有朋サン。
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実際有能な人ではあったみたい。

テーマ:銅像 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/29(土) 18:21:52|
  2. 銅像偉人伝
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長宗我部元親公初陣之像

基本的に銅像自体にはあまり興味は無いのですが、
気がついたら随分、銅像の写真を撮ってるなーという事で、
ちょっと纏めてみようと思いにけり。





第一弾は『長宗我部元親公初陣之像』
桂浜から高知市街へ戻る途中で発見。特に銅像に関心が無かった為、最初はスルッとスルー。
ところが飲料補給の為、近くのコンビニに車を止めたところ、道路の向こうに見えた銅像の後姿に強烈に惹かれた。

IMG_2396_1.jpg
コレ。かっちょえー。槍を脇に持ったポーズも珍しい。
今まで見てきた銅像の中では一番カッコよかです。
近くにあった銅像の説明を読むと長宗我部元親ではないか。戦国SLG「信長の野望」でよく使ったなー。

1560年の長浜の戦いの元親のようです。
22歳で初陣はかなり遅い方ですが、軟弱と思われていた元親はこの戦いでの奮戦で名を挙げ、
四国統一の第一歩を踏み出したワケです。
1585年には四国統一を達成するも同じ年には秀吉に攻め込まれ恭順、
翌年、同じく秀吉に恭順した豊後の大友軍を支援の命を受け、九州に出兵する。
しかし仙石秀久を軍監とする四国連合は前出・戸次河原の合戦(戸次川:へつぎがわの戦い)で
快進撃を続ける薩摩の島津軍によって壊滅、
元親はこの戦いで、溺愛していた嫡男・信親を失う。

信親死後、元親は四国統一まで冴えていた戦略眼もどこへやら、無計画さや独断が目立つようになる。
秀吉から薩摩の大隈を与えると言われたのに拒否したり、居城を転々と変えたり、
跡継ぎを四男・盛親にするため盛親を信親の娘と結婚させ強引に家督を継がせようとしたり、
その反対派を粛清したりと、長宗我部家衰退の原因をばら撒いている。

ただ、晩年精彩を欠いていたとは言え、初陣以降、生涯戦い続けた戦国武将らしい武将だった事は間違いない。

元親から得られる教訓:
「いつまでもくよくよしてると仲間も幸運も逃げてっちゃうよ」







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僕も一旦ヘコむと尾を引く方なんですが。

テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/26(水) 07:00:19|
  2. 銅像偉人伝
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可愛い来訪者


ちょっと前に庭で撮った写真です。
アゲハでいいんでしょうか、昆虫とかには全く詳しくないんですが、なんとも綺麗な蝶々がいたので撮ってみました。

IMG_0680_2.jpg
やたらウチに来るのがコイツ。ホントによく見かけるヤツですが、なんという蝶なのか全くわかりません。

IMG_0837_2.jpg
みつばち。こうして見ると可愛いなぁ。
あとカマキリとかバッタとかお馴染みの面々がいる賑やかな庭です。

とはいえ可愛い虫ちゃん達はその辺まで。ウチはド田舎にあるせいか昆虫の発育が良いみたいです。
ベルトみたいなム●デとか、肉厚なゴ●ブリとか、
あと新種かと思うぐらい見た事ないケッタイな蟲とか、自然が豊か過ぎて怖いぐらいです。


さてさて、西日本各地を放浪した写真を出してきましたが、オチがつけられるものは一通り出した感じです。
これからしばらくはオチがない小ネタが中心になりますが、よろしくお願いします。



と、いいつつ来月の旅を計画中のワタシ。
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ちなみにウチの庭、食物連鎖を生で勉強できる庭として兄の子供達には不評でした。
  1. 2006/07/24(月) 15:42:12|
  2. 時事・雑感
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ちょっと気になった話

ちょっと気になったニュースです。記録ついでにアップ。



輸血感染でエイズに、補償を求めたエイズ患者を逮捕 - 中国
【北京/中国 19日 AFP】
病院で受けた輸血によりエイズウイルス、HIV(HIV/AIDS)に感染した中国人女性が、
同国衛生省に対し手厚い補償を要求したところ、逆に重罪で逮捕された。

中国中央部の河南省Ninglingに暮らす郵便局員のLi Xigeさんが、Ningling 郡警察に逮捕された件について、
非政府組織Beijing Aizhixing Institute of Health EducationのWan Yanhai局長が、次のように解説する。

Liさんは1995年に河南省のある病院で第一子を出産した時、輸血でHIVに感染したが、当時は感染したことを知らなかった。
出産した子供は女の子だったが、母子感染で2004年に死亡した。第二子もHIVに感染していた。
その後、同じ病院で輸血の際にHIVに感染した女性数人がいることを知ったLiさんは、
18日にほかのエイズ患者ら8人とともに北京の衛生省を訪れ、手厚い補償を平和的に求めた。
これに対し、政府当局はLiさんらを巧みに言いくるめ、19日に河南省まで車で送り返した。

ところが20日、Liの家族はLiさんが政府を攻撃する集団を組織化した罪で正式に逮捕されたとの知らせを受けた。
同罪に問われた場合、刑法によると首謀者は懲役5年から10年を科される。
補償を求めた患者らのうち2人が逮捕され、残りは警察の監視下にあるという。
警察当局はAFPが接触した際、この報道については何も聞いていないとしてコメントを拒否した。



何が起こってるんだろうか。薬害エイズという話でしょうか。
しかし『政府を攻撃する集団を組織化した罪』とは・・・。
発展する中国が抱える矛盾と闇は深い・・・。

  1. 2006/07/23(日) 18:39:21|
  2. 時事・雑感
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ショック!千と千尋の道後温泉


「『ハウルの動く城』がTV放映されたな。どうだった?」




感動したわ!さすが宮崎駿監督ね!」




無理するな。顔にワケがわからなかったと書いてある。」




「書いてないわよ!なに言ってるの!?」





sentochihiro.jpg
あ、ハウル面白かったです。
今回は正月に兵庫の兄ヤンの家から四国を横断して帰って来た時に立ち寄った道後温泉です。
熱帯夜の不快指数をさらに上げるような冬服の写真ばかりですが、宮崎駿監督つながりで強引に取り上げたいと思います。

宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」に出てくる湯屋、その奇抜な日本建築が印象的ですが、
その湯屋を描く時に参考にしたと言われているのが目黒雅叙園や渋温泉金具屋、そして道後温泉本館など、
時代を先走ってしまった近代和風建築と言われています。

IMG_2088_1.jpg
道後温泉の諸施設は既に江戸時代に整備されていたが、1894年に、初代町長・伊佐庭 如矢(いさにわ ゆきや)の
「百年経っても真似できないものを造れ」との大号令の下、城大工など一流の職人を動員し、
伝統的な楼閣工法に西洋近代建築技術を組み合わせ、この威容を誇る道後温泉本館は誕生した。

IMG_2038_1.jpg
建物自体が重要文化財であるが現在も普通に営業中。

IMG_2008_2.jpg
道後温泉については夏目漱石の「坊っちゃん」にも書かれている。
「坊っちゃん」や「マドンナ」に扮装したガイドがいる。

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軍人さん。「坊っちゃん」の世界を演出しようという粋な計らいだろうがまるで憲兵にしか見えない・・・。

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内部ですが「千と千尋」を彷彿とさせる混雑っぷりに参った。記念に湯につかる程度でした。

IMG_2004_1.jpg
用途不明な扉や階段があちらこちらに。全く不思議な造りの建物だ。
ちなみに道後温泉本館の三階の部屋の畳の下に、建設に携わった大工達が自分の名前を落書きした後があるそうな。

IMG_2081_1.jpg






「凄い~!かくれんぼとかしたい!」




「建物だけを見れば実に素晴らしいのだが・・・。」




「だが?」



IMG_2002_1a.jpg


「ぱちんこ・・・。」




「実は道後温泉本館の目の前にパチ屋があったり、本館を見下ろすような高層マンションに取り囲まれてたりする。」




「これじゃあ、コスプレしたりしてどんなに雰囲気だそうとしても一撃で粉砕されるわね。」




「まぁ、このパチ屋、パチ屋にしては音も小さくネオンも控えめで遠慮は見られたが、歴史的建造物の目の前に建てちゃいかんよ。」



「お金儲けもいいけど、空気読めよって事ね。前も言ったワ、このセリフ・・・。」





『ショック!千と千尋の道後温泉』  おわり

↓前に言ったのはココです。
「かずら橋」で考える伝統の継承と保存





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松山市、現在、道後温泉本館周辺の景観整備中。

テーマ:香川・愛媛・高知・徳島 - ジャンル:地域情報

  1. 2006/07/22(土) 01:35:46|
  2. 知られざる日本
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国売りたもうことなかれ

かなり長文ですが時事・政治ネタはたまにしかやらんのでご容赦下され。

                 24_12.jpg
北朝鮮のミサイル発射に伴う一連の動きは安保理決議案全会一致という事で一区切りついた感がある。
依然として予断を許さぬ状況で、また近いうちに大なり小なり動きがあるであろう事は想像に難くないが。

さてさて、政治の動きはさておき、今般の一件で少し気になった事があるので備忘録ついでに書いておこうと思う。

とかくこのような大きな議題が挙がった時、露骨な意見交換が行われ易いネット空間では相手の本音や
精神状態を探る絶好の機会に思え、2ch及び日韓翻訳掲示板などに潜伏して観察していた。
特に日韓翻訳掲示板ではおよそ全てのカテゴリーで同議題の論戦が行われていて大変興味深かった。
国際協調と民族共助という韓国社会のジレンマを感じる事ができた辺りは実に面白かった。
やはり彼らは韓国社会の矛盾や対立構造からの現実逃避の為に「反日カード」は絶対に捨てる事はないと確信したりもした。

それはいいんだが一方で一部の日本人達の主張がどうにも違和感を感じてしようがなかった。
「日本を攻撃すればアメリカが黙っていない」
「世界最強のアメリカが朝鮮を倒す」等々・・・。

これは全て日本人側のコメント。
おそらく二十歳前後の若い人達だとは思うが、僕は彼らに違和感を感じずにはいられない。

いくら特定アジアが嫌いだからと言ってアメリカの威を借るのはどうか。
彼らは結局、媚米を担保に嫌韓・嫌中・嫌鮮をしているに過ぎず、前提としての「アメリカ支配下の日本」を
無意識の内に肯定しているようにみえる。
また僕の周りでも「アメリカが」「アメリカが」という人が意外と多かった。
「そこは日本やろ!なんでアメリカアメリカなんか!」と軽くツッコんでおいたが、
「日本は何も出来んばい」と冷めた返事が返ってきて僕を苛立たせた。
「日本に併合されるぐらいなら、ロシアに併合された方が良かった」という韓国人の属国根性と大差ないように感じるが。

自分達は汚れずにアメリカをおだててやらせようという算段か?
或いは特定アジアを倒すという目的の為ならアメリカに媚びへつらうとでも言うのであれば、
それは守るべき主体である「日本」を失う事になるだろう。



例えば朝鮮併合前、つまり大韓帝国であるが、李完用首相は日韓併合条約を推し進めた為、
韓国では「民族史上最大の売国奴」と揶揄されている。


朝鮮末期、王朝は腐敗し教育を受けない人民は貧しさに喘ぎ、大韓帝国と称して改革を試みるも、
結局は破綻国家の延命措置に過ぎなかった。
朝鮮併合は負担が大きい為、内政を優先すべきだと主張し、朝鮮併合に反対していた伊藤博文がハルビンで朝鮮人に暗殺され、
日本では朝鮮を武力併合すべしという強硬論も息を吹き返していた。

既に破綻寸前の朝鮮は日本帝国の復讐を恐れていた。
韓国皇帝は伊藤暗殺を謝罪し、日鮮同祖論を信奉する朝鮮人政治団体は、朝鮮が生き残る方法は
日本と併合し進んで皇国臣民になることだと主張する。

李完用は朝鮮人民を救う為、日韓併合を推進する。知らない人は意外に思うだろうが、
日韓併合を最初に持ちかけたのは朝鮮側である。
「日本側に対し、まず合邦を打診したのは朝鮮側だった。」 韓国・中央日報

seoul1936a.jpg
結果、朝鮮は日本から莫大な投資を引き出す事に成功、さらにそれまで教育を受ける事ができなかった女性や、
白丁などの被差別階級にも教育を施し、世界大恐慌の中でも驚異的な成長を遂げる。
「西洋人は蚕から糸を取り出す事から服をつくり、
日本人は西洋人が取り出した糸を編み合わせて自分に合う服をつくり、
朝鮮人は出来上がった服を着せてもらった」
ここで言う「服」とは産業革命と近代化の事だが。

seoulunivstr1.jpg
李完用は朝鮮人民を愛し、朝鮮人民を救ったわけだが「売国奴」である。
朝鮮人民を救うという「目的」の為に日韓併合という「手段」を選んだ。
しかし結果として朝鮮民族の精神の拠り所である「朝鮮」を失っていた。
「目的」を果たす為の「手段」によって「目的の主体」を失った顕著な例に思える。
そして現在の韓国・朝鮮人は未だに激しい劣等感に苛まれ発狂しているのである。
koreanman1.jpg


これを間抜けな隣国の間抜けな歴史と嘲笑う事ができるだろうか。
勿論、朝鮮と日本とではポテンシャルが全然違うので一概に比べる事はできないが、
日本を守る為に外国に全面的に頼る行為は緩やかな売国行為と言えないだろうか。

現在、アメリカは日本の重要な同盟国だが、宗主国ではない。
日本を守るのはアメリカ人ではなく日本人であるべきだ。
「アメリカが守ってくれる」というのは「特定アジアとの無条件友好」を謳う脳内花畑な人達と同じぐらい幼稚な水準に思える。
特定アジアに対抗する為に外国に媚びへつらうなら、100年後の日本人達は僕達の世代を「属国根性」と軽蔑するだろう。

どのような形であれ、売国行為を許容する寛容さを僕は持ち合わせてはいない。

媚中・媚韓派は全くの論外。あれ程判りやすい売国奴も無いわけだが、
同じ様にアメリカや国連に頼りきった主張をする人達の無邪気さもチョット危うい。
特に「特定アジアに興味を持ち始めたばかりの人達」、
アイデンティティーの根幹を常に日本に置き、日本の主張の根拠を外国に委ねる事の無いようにお願いしたい。

北朝鮮のミサイル発射に伴う、国内における反応を見ながら、僕はそんな事ばかり考えていた。
JAPAN.jpg







現代世界では単独防衛は無駄が多く又不可能なわけですが、気概というか自立した意識というか・・・。
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アメリカに反対しろと言ってるのではなく、おんぶにダッコはいやだなぁと。
  1. 2006/07/21(金) 00:45:28|
  2. 時事・雑感
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宮島のセクハラじじぃ

IMG_1112a.jpg


「広島みやげといえば『もみじまんじゅう』。もみじまんじゅうは宮島が発祥の地だという。」




「へぇ、今じゃ全国どこでも売ってるわね。」




「ここからはワシが話そうか・・・。」




伊藤博文公!お目にかかれて光栄です!」



「おじいさん、こんにちは!ところでおじいさんはどなた?」




「無知は黙ってろ小娘!



「ホッホッホッ、まぁ良いではないか。それにしても可愛い娘さんだねぇ。




ゾゾッ・・・、何コノ人・・・。」





momijidani.jpg
明治時代、伊藤博文は弥山の三鬼大権現を篤く信仰し宮島を度々宮島を訪れている。

ある時、茶屋で休んでいた伊藤博文に茶を差し出した娘の手を見て伊藤博文が
「紅葉のような可愛い手、焼いて食べたらおいしかろう」
と、のたまったそうな。
それを傍らで聞いていた茶店の女将の話によって、散って落ちたもみじの葉をモチーフに焼いたのがもみじまんじゅうの始まりだとか。

もみじまんじゅうが初めて焼かれたのは1907年、伊藤博文が暗殺されたのが1909年、時系列上有り得ない話ではないものの、
おそらく伊藤博文死後に宮島を深く愛していた故人を偲んで後から作られた話だと思われる。

IMG_1132_1.jpg
今ではあらゆるバリエーションのもみじまんじゅうが売られており、宮島ではほとんど焼きたてを食べる事ができる。

IMGP0139_1.jpg
中でも揚げもみじは異色。ここまできたかとw
でも意外とおいしかったです。




「さすがです、閣下!『紅葉のような可愛い手』など並みの男には言えません!」




「ほっほっほっ、戯れで申した事がかような事になろうとは・・・。」




「おじいさん、それって今ではセクハラですから。というかパワハラ?



「おま・・・なんつー事を・・・。」




「・・・。」





20060719185752.jpg
余談ですが、もみじまんじゅうを一躍メジャーにしたのは島田洋七。
《以下引用》
1970年代の漫才ブームの頃に「もみじまんじゅう~!」というギャグ(?)の影響で売上が十数倍に跳ね上がったそうだ。
ブームが終わってももみじまんじゅうは売れつづけ広島みやげとして完全に定着した。
島田洋七の功績に感謝した最大手にしき堂の大谷照三会長は、お礼に現金5000万ほどを手渡そうとしたが、
洋七は「我々ももみじ饅頭のお陰で売れた」と受け取らなかった。
が、洋七は今でも広島へ行くと、飲食店ではタダ、という。店がお金を受け取らないらしい。
それは現金を受け取らないB&Bに、大谷会長が感謝の気持ちを表す為、広島の飲食店に対してB&Bの飲食代は受け取らずににしき堂に請求書を回せと指示してるそうだ。
《引用終わり》



島田洋七ステキ
あたしの中では島田洋七>>>モラルの壁>>>セクハラじじぃになったわ。」



「ワシ、もう帰る。こんなブログ二度と来ない。」




「閣下、お待ちを!閣下ーッ!








宮島のセクハラじじぃ  おわり




伊藤博文は元々、朝鮮併合反対派。
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そんな伊藤を暗殺した朝鮮人、歴史的大自爆だったりする。







  1. 2006/07/19(水) 13:56:18|
  2. 知られざる日本
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宮島【厳島神社】

彦島の話が出てきたトコロで、同じく厳島神社の最終候補地となり、結果的に建設地に決定した宮島にイッテミヨー。



IMG_1108_1.jpg
広島県廿日市市(はつかいちし)の宮島。宮島の厳島神社は世界遺産にも登録され今や日本を代表する観光地となった。本州側からフェリーに乗ってすぐだ。

IMGP0149_1.jpg
見えてきました、例の鳥居が。

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船酔いする間もなく宮島到着。さっそく鹿がお出迎え。

IMG_1111_1.jpg
駅前にいた人力車のサムライおじさん。その魅惑のヘアースタイルは当然のように僕の感性を刺激する。
「写真撮らせてもらっていいですか?」と尋ねたら、ぶっきらぼうに「いいよぉ」と返事。近寄ってきた鹿と戯れてくれた。
後で知った事だが、このサムライおじさん、宮島を紹介するテレビ番組や旅行雑誌によく出ているようだ。

IMGP0135_1.jpg
修学旅行生がお菓子をあげまくってギャング化した奈良の鹿に比べて、宮島の鹿はおとなしい印象を受ける。
可愛いからといって餌をあげるのはNG。地元住民の為でもあり鹿の為でもある。

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宮島は厳島神社だけではなく歴史的建築物が溢れている。これは千畳閣。1587年、豊臣秀吉が戦没武士達の供養の為に建設を命じたものらしい。

IMGP0064_1.jpg
建設中に秀吉が死んだ為、内部は未完成のままだとか。しかし900畳近くある大伽藍は見事。
千畳閣のすぐそばに五重塔があるが僕が行った時は改修中だったので写真はナシ。でもキレイでしたよ。

IMG_1125_1.jpg
さぁ厳島神社でございます。海に浮かぶ神殿を思い浮かべていたが見事に干潮。剥き出しですw

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厳島神社の創建は推古天皇即位元年(593年)と伝えられているが、1168年に平清盛が寝殿造りの様式を自在に取り入れ現在のような姿になった。清盛のブルジョワジーなセンスの賜物のようです。

IMGP0091_1.jpg
しかし干潮時だからこそ大鳥居の所まで歩いていけるという特典あり。満潮時の美しさを見て見たかったが、これはこれで楽しい。この大鳥居は土に埋まっているわけではなく、全体の重みだけで立っているらしい。驚き。
厳島神社の写真は日本の象徴として海外に知られているせいか外国人観光客が多い。
フランス人の団体がドカドカと境内を歩き回って写真を撮りまくっていた。いい写真は撮れたかい?

IMGP0113_1.jpg
厳島神社は日本で最も維持が大変な神社らしいが「鳥居のある風景」に懐かしさを感じるジャパニーズな僕としては、
この風景が永遠でありますようにと祈らずにはいられませんでした。
本来は一日かけて宮島探索したいところだったが時間の関係で普通に観光コースしか回れなかった感じです。
次に訪れる時は宮島の反対側まで探索する裏宮島コースにします。




宮島【厳島神社】   おわり

     次回  宮島のセクハラじじぃ に続く


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  1. 2006/07/18(火) 23:18:06|
  2. 知られざる日本
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踊る!晋作オンステージ!


彦島が外国に奪われそうになったというお話の続きである。」






「♪三千世界のぉカラスを殺しぃ~♪」











「なんか変なのキターーー!」





bakan1.jpg
馬関戦争。下関戦争、四カ国連合艦隊下関砲撃事件とも言う。

1863年に尊皇攘夷の急先鋒、長州藩が馬関海峡(関門海峡)を通過するアメリカ船ぺンプローク号を攻撃、
その後もイギリス、フランス、オランダの艦船に砲撃を加えた。
1864年、この四か国は連合艦隊を結成、軍艦17隻・兵員約5000人を投入して長州藩に報復を行う。これが馬関戦争。

w12tyoshu11.jpg
彦島沖に集結する四カ国連合艦隊。この写真は国東半島沖の姫島近海とも言われているが詳細不明。
(彦島も姫島も知っているが多分、彦島だと思う。)


連合軍・陸戦隊に占拠された前田砲台。
この戦争で長州藩は完敗、戦後処理を含めた和議交渉という難しい局面に長州藩は当時、脱藩の罪で投獄され、謹慎中だった高杉晋作を交渉の正使に任命する。
有能な人材であれば問題児であっても登用するあたりが当時の長州藩の強さだろうか。
それではその交渉の様子をリアルに再現してみよう。
ちなみに連合国側はイギリス海軍キューパー提督だったらしいが画像がみつからないので、
同行していたパークス公使にご出演願った。




「オレが長州藩代表、シンサク・タカスギこと宍戸刑馬である。」




「ンーフン?アナタ、以前イギリス公使館ヲ焼キ討チシタ人ニ似テマスネェ?」





「知らぬ。そんな事より和議の話なのだが。」



「アーハ?イイデショウ・・・。デハ我々ノ主張ハコウデス。
オマエラ、ジャップハ身ノ程モワキマエズニ、一方的ニ攻撃シテキマスタ。
全ク猿ノ分際デ、フザケヤガッテデース。
トリアエズ彦島ヲ租借シテ下サイ。香港ノヨウニ・・・。」



「ウオオォン!!」





ビクッ!





「そもそも、日本国は、高天原より始まり、はじめ国常立命(くにのとこたちのみこと)ましまして、
続いて、いざなぎ・いざなみ二柱(ふたはしら)の神、天(あめ)の浮橋(うきはし)に立ち、天の瓊矛(ぬぼこ)をもって海をさぐられ、その矛(ほこ)の先からしたたるしずくが島になった。まずできたのが、淡路の国のおのころ島…」


「オーノー、コイツ危ナイ奴デス・・・。ナゼコンナ、キ●ガイト交渉セナアカンネン・・・。」





「というわけで我が国は神のおわす国であり、これまで一坪たりとも他国に貸したことはなく、
ましてや我々が租借など勝手に決める事などできようか?いやできまい。
まず八百万の神々に伺いを奉り・・・。」


「オーミスター・・・頭痛ガシテキマスタ・・・モウ30分ハ一人デ喋ッテマスガ、ソロソロヤメヤガッテ下サイ。
彦島ハモウイイデス、ヤッテランネーデス。金デ解決シル。
トリアエズ賠償金300万弗払ッテクダサーイ。




「ウオオォン!!」





ビクビクッ!





「元はと言えば攘夷決行日を定めた幕府に責任があると言うのに、我々に支払えとおっしゃるか!
そもそも我々のような地方の小藩にそれほどの莫大な賠償金を支払う能力などあろうか?いやあるまい!
藩祖、毛利輝元公がこの地におわしめされたのは今より二百六十余年前・・・。」


「ノーノーノー、ミスター、オーケーデス。ワカリマスタ。ダカラモウ、勘弁シテクダサイ・・・。」





このように緊迫した交渉の中、彦島租借を突っぱね、さらに賠償金を幕府に押し付けるという荒業を高杉晋作はやってのけた。

敗戦の戦後処理という難しい状況下、エキセントリック先生・高杉晋作は長州藩を救い、さらに日本の領土を守ったのである。

IMG_0784_1.jpg
現在の下関に長州藩の砲台が再現されている。
馬関戦争の三年後に高杉晋作は27歳の短い人生を終える(←若い!)

*彦島租借について
イギリス政府は彦島租借を要求した事はないと主張しているが、当時、交渉に臨席していた日英双方の通訳が彦島租借のエピソードを証言している。
イギリスの目的は幕府との交渉を有利に進める事であって、彦島は取れたらいいなぁー程度だったのではないかと個人的には思う。
もし高杉晋作が強気で出てなかったら、オマケ程度の感覚で領土を奪われていたかも知れない。





ウハハハハ!晋作先生、さすがです!毛唐どもが面食らっております!」




「フフフ・・・ちょっとキレたヤツを演じさせれば僕の右にでる者はいないよ・・・。」




「この人の場合、絶対に演技じゃないわ・・・。」






『踊る!晋作オンステージ!』  おわり、、、

しかし
エキセントリック晋作先生の人生はこんなもんじゃない。
晋作オンステージはまたそのうちやりたいと思います。



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ちなみに高杉晋作も靖国神社に祀られている。
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  1. 2006/07/17(月) 02:41:00|
  2. 幕末維新烈風伝
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彦島について

IMG_2464_1.jpg
山口県下関市の彦島。
関門海峡の外海側入り口にあるこの小さな島について少し。


(彦島大橋の彦島側の響灘に面した風車塔「ひこしま風丸くん」)
現在はその地理的条件から重工業が盛んで、人口は3万人を越える。


古事記・日本書紀にも出てくる歴史ある島だが、この島に最初に価値を見出したのは平家だ。
平清盛の時代、厳島神社建設にあたって宮島と彦島が最終候補地に残ったが結果的に宮島が選ばれた。
しかしその後も平家は彦島を戦略的価値の高い島として重視しており、壇ノ浦の合戦の際はここに本陣が置かれ、平家最後の砦として平知盛の根緒城(ねおじょう)があったという。
また平家の隠し財宝の伝承など平家ネタが豊富な島でもある。(残念な事に史跡などがほとんど残っていない。)

IMGP0315_1.jpg
(九州側・和布刈公園(めかりこうえん)にある源平絵巻の壁画。夜間にライトアップされる。)
彦島は基本的に平家びいきらしい。
というのも壇ノ浦の合戦時、彦島の漁師達は平家に徴用され船頭をやっていたのだが、従来、現地徴用されたそうした船乗り達は殺さないという武士のルールがあったらしい。
しかし平家の船団を止める為にそのルールを無視して船頭を真っ先に皆殺しにしたのが源義経だったとか。
義経はそれまでの常識を覆す戦略で平家を打ち破ってきたわけだが、彦島住民がそうした歴史を知ると「勝つ為なら何でもアリかよ」とアンチ源氏になるらしい。

IMG_2466_1.jpg
さて、この歴史ある島・彦島はかつて外国に奪われそうになった事をご存知だろうか。
そしてこの彦島史上最大のピンチにあの男が立ち上がったのだった・・・。





『彦島について』 終わり

               『踊る!晋作オンステージ!』につづく



そう、ヤツです。
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幕末の天才と呼ばれたアノ・・・。アクセス解析

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  1. 2006/07/16(日) 16:01:24|
  2. 知られざる日本
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◆お知らせ

かねてより画像を大きく見せたいと考えておりましたので
7月15日よりテンプレ変更致しました。

過去記事を現テンプレに合うよう随時修正予定。

  1. 2006/07/15(土) 17:02:01|
  2. 時事・雑感
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萩へ行くはずが・・・。


昨日は休みだったうえによく晴れていたので、山口県萩市に行こうと突然思い立ち、張り切って関門海峡越えしたのですが・・・。
暑い・・・暑すぎる・・・。
今年の最高気温だったそうですね。191号線を北上、川棚を越えた辺りで早くもバテてしまいました。
この調子で萩へ行っても、炎天下に歩き回れそうになし、萩は一度行った事もあるので今回は中止にしました。
しかし、せっかく海峡越えしたので、角島(つのしま)の海を見に行こうという話になりました。


角島大橋。気持ちいいです。通行料などかかりません。


エメラルドグリーンの海が見えてきました。
福岡・山口が北朝鮮のスカッドミサイルの射程に入ったという話をしてるうちに、なぜか泳ごうという話になってしまい、急遽、海水浴ツアーに変更。


基本的に夏の太陽が嫌いな僕。生っちろい肌にアウトドアは似合わんなー。
本当はエアコンの効いた部屋から出たくないグータラなんですが、腐っても国東の漁師の孫。
国東半島の長崎鼻周辺は現在は有料になってるようだが、昔は柵も管理人もなく、沖合いのフェンスもなく、自由に泳ぐ事ができた。(全ての危険は自己責任。でも海難事故の話は聞いた事はない。地元のガキ共はどこが危険かよくわかっていたからね。)
そんな事を思い出すと、海に飛び込まずにはいられなかったのです。

今は日焼けの後がヒリヒリしてます。
萩?ああ、そうそう萩へ行くはずだったんですね。
またいずれ行きます・・・。
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  1. 2006/07/15(土) 15:52:00|
  2. 時事・雑感
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アレイからすこじま




「クックックック・・・。」



「うへぇ・・・悪い予感。まさか、また我が帝國海軍ウンタラカンタラかしら?」



「無論そのまさかだ。大和ミュージアムが大反響だという事は以前述べた通りだが、実は大和ミュージアムの目の前に海上自衛隊が資料館を建設中である事はあまり知られていないようだ。」






「ウハハハ!見よ!この期待せずにはいられないデザイン!良い意味で正気の沙汰ではない!」




「わぁ!何?潜水艦?本物?」



本物だ。
『ゆうしお級7番艦あきしお』。2004年に退役した老朽艦が使われる。呉もいよいよ海軍の街を堂々とアピールできるようになってきたな。そんなワケで今回は呉の『アレイからすこじま』を見てみよう。」


「あれいからすこじま??」







『アレイからすこじま』(旧呉海軍工廠本部前)

アレイ=ARREY(小道)
からす=烏(からす)
こじま=小島(こじま)

ちょうどこの沖合いに小さな烏小島(からすこじま)がある為そう名づけられた。
日本で唯一、潜水艦を間近で見る事ができるスポットとして意外と有名だったりする。大和ミュージアムへ行った人は大抵ここを訪れる。


道路沿いに突然見える艦船、これも結構近い。荷物を積み込んでいるのがよく見えた。


本来、潜水艦の行動は上位ランクの軍事機密。ここにいるのは練習艦隊(向こうに見える艦も4ケタナンバーの練習艦)。


前述の呉資料館(仮称)に使われる「あきしお」もかつてはここにいたようだ。正直言うと潜水艦は全く区別がつかない。
ある人が言うには潜水艦のデザインは究極の機能美だとか。深いですねぇ。(潜水艦だけに)
ただ潜水艦をこれだけ間近に見る機会なんてそうそうないので面白かった。なんだか可愛い印象を受けてしまった。


音響測定艦はりま。

旧海軍の母胎とも言える呉には当然、旧海軍の遺物も多く半日ではとても周りきれませんでした。もう一度行かねばと思っていましたが、そうですか、「呉資料館(仮称)」ですか。楽しみです(^^)

開館予定は・・・来年の4月???

ま・まぁいい・・・。





「クックック、ちなみに呉海自では毎週、乗艦見学やってるんだが希望者が殺到しているとか。どうだお前も艦に乗りたくなったろう?」



「映画の影響かな?というか海上自衛隊はイメージ作るの上手いよね。旧海軍からの伝統かしら?陸上自衛隊ももう少し宣伝上手にならなきゃね。」



戦国自衛隊の立場がねぇなオイ。」





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  1. 2006/07/13(木) 00:27:40|
  2. 知られざる日本
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九州人に見せつけた会津士魂

おかげさまで西南戦争3部作、過去最高のヒット数だったようです。
いまいち評判の悪い薩摩藩のイメージアップに多少は貢献できただろうか。別に特に何もいい事書いてないのであまり変わらんか(笑

しかし、やはり幕末~維新という動乱の時代を駆け抜けた連中は、哀しい程に愚直で、愛しい程に不器用な、実に愛すべきヤツラでございます。
そしてここにもう一人、不器用なヤツがいる。


以前の投稿で秋月藩士の墓の事を書いたが、実はこの墓地にはもう一つ史跡に指定された「斗南藩士 郡長正(こおり ながまさ)之墓」がある。

斗南(となみ)藩というのは旧会津藩の事。
幕府の為に最後まで戦った会津藩は戊辰戦争で薩長連合を中心とする官軍にボコボコにされ、朝敵とまで蔑まれ、挙句に青森の下北半島に領地替えくらわされてしまい、辺境の地で会津復興を目指して建てられたのがこの斗南藩。

なぜ下北半島の斗南藩士の墓が九州にあるのか。
そもそも郡長正(こおり ながまさ)って誰?何をした人?


郡長正(こおり ながまさ)
彼は会津藩家老・萱野権兵衛(かやの ごんべえ)の次男である。
萱野権兵衛は戊辰戦争敗戦後、その敗戦処理を行い、また藩主・松平容保親子の助命嘆願に尽力する。
その結果、家老である田中土佐、神保内蔵助、萱野権兵衛の三人が戦争責任者となったが、他の二人はすでに自刃していたので、一人首謀者として1869年に切腹した。

萱野家は断絶し遺族は「郡(こおり)」という姓を名乗る事になる。

会津藩再興を目指す斗南藩は藩校「日新館」失っていた為、優秀な人材を同じ佐幕派として戦った友好藩に留学させていた。

郡長正ら7名は現在の福岡県の小笠原藩・育徳館に留学していた。
長正の成績はかなり優秀だったようだ。
留学して2年後、事件は起こる。

ある日、長正は故郷の母親への手紙の中で「寮のメシが不味い、会津の干し柿が食べたい」と書いた。
これに対し母親は「おまえは斗南へ行った人々の苦労を知らぬのか、食べ物が不味いだのと泣き言を吐くとは会津の武士の子が情けない」と叱責の手紙を返してきた。
長正は自分の浅はかさをわびる手紙を出し、その後、この母からの手紙を身につけていたが、長正はこの手紙を落としてしまい、不運にも小笠原藩士の同級生達の知るところとなる。
地元を侮辱されたと感じた小笠原藩士達はこの手紙を教室に張り出し、他の生徒達の面前で「会津」を口汚く侮辱したという。
もとより敗戦国で朝敵となった会津藩のこと、何を言われたかは簡単に想像できるが。

それから5日後、小笠原藩主の臨席のもと行われた校内での剣道大会で長正は5人抜きを行い周囲を驚かせた。
しかし大会が終わった直後、長正は寮の一室で腹を斬った。

享年16歳。

落ちぶれたりとはいえ、かつては幕府を支えた会津藩二十八万石の意地をみせたか。会津の白虎隊を思い起こさせる長正の自刃にはさすがに小笠原藩士達も豊津の人達も度肝を抜かれたようだ。

この一件は結果的に会津の名誉を守る事になった。
豊津の人々は長正を手厚く葬り、会津の方角に向けて墓標を立てた。異郷の地で少年が見せた「会津士魂」に敬意を払い、また謝罪の意味を含めて今日でも慰霊祭を執り行っている。
また育徳館の流れを汲む福岡県立豊津高校の中庭には、萱野家の菩提寺の墓石や鶴ケ城の庭石を配置した郡長正記念庭園が造られている。

時代の大きなうねりの中で意地を貫いて消えていった不器用な16歳の少年のお話。(実際のところ、この件は諸説あって定かではない)


余談ですが会津若松市の天寧寺には会津入りした土方歳三によって遺髪を葬ったとされる「近藤勇」の墓と、「萱野権兵衛」の墓、そしてこの「郡長正」の墓があるそうな。


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小ネタのつもりが長くなった・・・。

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テーマ:史跡 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/11(火) 00:33:00|
  2. 幕末維新烈風伝
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北朝鮮の風景と経済制裁について少し


今般の北朝鮮の軽率な言動は、北朝鮮当局の焦りからくるものに見える。
アメリカによる金融制裁がジワジワと効いてきたのだろう。
それに加えて日本政府も限定的ではあるが経済制裁を発動した。

この経済制裁について「北朝鮮の貧困層がさらに苦しい状況に追い込まれる」という意見もあるようだ。
果たしてそうだろうか?

northkorea10.jpg
思うに北朝鮮の貧困層の現状は制裁の影響は少ないと見る。
正確に言うなら「昔も今も苦しい状況は変わらない」のである。
では経済制裁によって誰が影響を受けるのか。

northkorea4.jpg
まず軍部。金正日による「先軍政治」によって優先的に保護されている。

northkorea3.jpg
次に平壌などの特別行政区の住人達。彼らは一般市民などではなく行政によって優遇される特権階級である。
経済制裁の影響をモロに受けるのは彼ら特権階級に他ならない。
「飢えと貧困」という北朝鮮のイメージからは想像しづらい平壌の風景を少し見ておこう。

nkorea10.jpg
一見、普通の市民だが彼らも優遇された特権階級である。どんな政権下にあっても人々の営みの中には日常があり青春がある。

nkorea50.jpg
問題はその日常の背景にある意図である。外国人の目に触れやすい平壌市民には飢えと貧困のイメージはない。

northkorea2.jpg
外国人向けのホテル。

nkorea52.jpg
立派な駅だが中国人観光客ばかりである。一体誰の為の施設だろうか。

nkorea20.jpg
外国人観光客向けのみやげ物販売所。

korea84.jpg
よく見ると日本製の生活品が多い事に中国人も驚いている。在日朝鮮人は純粋に祖国の人々の役に立てばという気持ちで送ったのだろうが、結局は北朝鮮人の手には渡らず、外貨獲得の為に外国人に売られているのである。

korea34.jpg
凱旋門。必要か?建設費の出所はドコ?

korea60.jpg
北朝鮮の歴史を表現する有名なマスゲーム。これを見た在日の学生らは祖国の偉大さに感動するとか。

northkorea12.jpg
偉大か?

nkorea1.jpg
平壌に住む特権階級は果たして脱北者が頻発する農村部の現状を知っているのだろうか?もし知っていながら踊っているのであれば嫌悪に値するが。

korea19.jpg
見かけにこだわる北朝鮮。都市計画などあって無い様なものだ。

nkorea7.jpg
北朝鮮に対する支援は無意味である。まず軍部が、次に都市部の特権階級へ、余裕があれば農村部へという流れの中で、本当に支援を必要とする人々へ支援物資が届く確率は極めて低い。

northkorea9.jpg
経済制裁をしない、或いは支援する、というのは北朝鮮の貧困層を助けるどころか、かえってその苦しみを延長させているだけに感じる。

nkorea49.jpg
外国人観光客には必ず学校訪問をさせ子供達による接待を受けさせるらしい。以前、日本人ジャーナリストが訪朝した際に子供達による接待を断っていたが、強制的に受けさせられていた。
しおらしい、そしてけなげな子供達の対応に多くの外国人は感動するとか。しつこいようだが問題はその背景にある意図であるわけだが。

northkorea11.jpg
さて、そろそろ結論。
日本政府は限定的ではなく、少なくとも3年以上の長期に渡る経済制裁を実施すべきである。
それによって特権階級が特権を失う時、
その時こそ剥き出しのリアルな北朝鮮が姿を現すだろう。

日本、或いはアメリカ・国連などによる軍事行動は現実的に可能性は低い。特に日本国民は直接攻撃を受けても反撃を支持しない可能性が高い気がする。また北朝鮮建国に血を流した中国・ロシアは猛反対するだろう。
現実的には経済制裁しかないのが現状だともいえる。

制裁によって金正日体制が限界に達した時に内部崩壊か、或いは軍事行動という愚行に出る可能性もあるが、同時に金正日体制が続く限り、北朝鮮の貧困層は苦しみ続け、また周辺国への軍事的挑発が収まる事も無いのだ。

N028.jpg
朝鮮民族の自尊心に配慮するならば彼ら自身の手で変えてもらうのが一番良いのだが
↑これだから。

余談ですが金正日体制崩壊による混乱を最も恐れているのは、国境を接する韓国・中国・ロシアであり、金正日体制延命に尽力しているのがこの3国である事も付け加えておきたい。




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  1. 2006/07/08(土) 22:16:58|
  2. 時事・雑感
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西南戦争【さらば!ラストサムライ達!編】

IMG_0255_1.jpg


「1877年8月15日、宮崎での戦闘で大敗を喫した西郷隆盛は、翌16日に薩軍の解散を宣言、残った精鋭部隊だけで包囲網を突破、9月1日、鹿児島の城山に最後の陣を敷く。」




siroyama32.jpg
城山は標高107m程度で、山というより丘の印象を受ける。
9月6日、鹿児島に上陸した政府軍は城山を完全に包囲した。

IMG_1600_1.jpg
西郷と薩軍幹部らが整列したという西郷洞窟。
洞窟というより洞穴と言った方が正確か。

chi05_4190.jpg
9月24日、政府軍による城山総攻撃。
既に自らも被弾していた西郷は遂に自刃、西郷と共に薩摩を支えてきた歴戦の勇士達はその後も戦い続けるも悉く戦死、ここに驚異の武闘派勢力・薩摩はその武勇を誇った歴史に幕を下ろす。



「国家はこれから隆盛になり、前途には必ず喜ばしいことが続くだろう」

「篠原国幹(しのはら くにもと)」
天皇からも絶賛された指揮能力を持ち、薩英戦争以来、薩摩の戦争全てに参戦、
“冷炎薩士”の異名を持つ。
1877年3月4日、田原坂の激戦にて戦死。


「いずれ青い目の奴らと戦う時の為に、格好の演習相手になってやろう」

「村田新八(むらた しんぱち)」
大久保利通に次ぐ秀才。岩倉海外視察団の一員でもあり、海外情勢に詳しく、西南戦争も勝ち目が無い事を知りつつも、兄と慕う西郷と命運を共にする。
1877年9月24日、城山攻防戦にて自刃(既に戦死していたとも言われている)。




「おいどんな無学で天下の事は判らぬが、しかし思うに今日の太平は長く続かぬものと考える。」

「桐野利秋(きりの としあき)」
西南戦争において前線で薩軍の総指揮をとっていた人物。西郷自刃を見届けた後もなお戦い続けた薩摩最強剣士の一人。「文盲で人斬り」というイメージは小説の影響。城山で戦死。



「ごめんなったもんし!」

「別府晋介(べっぷ しんすけ)」
そう叫びながら涙を流して西郷を介錯した人物。戊辰戦争以来、常に最前線・最激戦区で戦い続けた勇士。既に歩けない程の手傷を負っていた彼は、西郷介錯後、後を追うように自決する。







IMG_1575_1.jpg
桜島を見下ろす南洲墓地、そこに彼らの墓はある。

IMG_1593_1.jpg
1879年、西郷の遺体が埋められたこの地に、有志によって九州各地に散り散りになっていた西郷軍の遺骨2023名分が集められた。

IMG_1587_1.jpg
桐野、篠原、村田、別府など歴戦の勇士らが西郷を護る様に眠る。



『ぬれぎぬを
    干そうともせず
   子供らが
  なすがまにまに
    果てし君かな』  勝海舟



「己が信念の為なら地位も名誉もあっさり捨てちまう、これぞ日本男児ではないか!はっきり言ってなんだが平成日本人なんざ金持ってるだけの軟弱ヘタレ民族に見えらぁ。お前ら本当にオレ達と同じ日本人か?疑わしいぜ!」



「また調子にのって・・・戦争すりゃいいってもんじゃないでしょ?」




「しかし九州以外では薩摩って人気ないんだよな。西郷さん個人は別として。」




「人気ないとかじゃなくて、むしろ評判悪いよね。強いからって調子に乗って無茶したからじゃない?」




「う~ん、なぜか暗殺集団の新●組やコウモリ野郎の坂本●馬の方が人気があるっつーのはどうかと思うが。」





「また敵をつくる発言を・・・。」









西南戦争【さらば!ラストサムライ達!編】 終わり



あ、いや、土方サン、好きッス。
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竜馬LOVEです、ホントは。
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  1. 2006/07/06(木) 19:47:37|
  2. 幕末維新烈風伝
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西南戦争【死闘!田原坂!編】


「さてさて、1877年1月、明治政府は鹿児島から大阪へ武器・弾薬の移送を試みたが、西郷隆盛の私学校徒がこれを強奪、この事件を切欠に西郷は決起を決意する。その後のお話。」





20060704020755.jpg
1877年2月、西郷率いる薩軍が進軍を開始、
目指したのは明治政府の九州最大の軍事拠点「熊本鎮台」が置かれた「熊本城」。

seinan.jpg
薩軍は西郷に賛同した九州各地の武士達と合流し勢力を増しながら北上、1877年2月22日、「熊本城」を包囲する。

kumamoto.jpg
開戦前の熊本城。西郷側は熊本鎮台はさほど抵抗せずに投降するだろうと考えていたようだ。

tanitateki.jpg
しかし、政府軍側、熊本鎮台司令長官「谷 干城(たに たけき)」は熊本城周辺の市民を避難させ、さらに薩軍が大砲を隠せないように射程距離内の家屋を焼き払い、部下達には徹底抗戦を指示、この時より実に52日間に渡る篭城戦となる。

TBR-1.jpg
政府軍は熊本城を救援すべく南下を開始、しかし政府軍の重火器類を運搬できる唯一の経路、「田原坂」には既に薩軍が堅固な陣を敷き待ち構えていた。


「秋月の乱」を鎮圧した乃木 希典(のぎ まれすけ)率いる小倉の歩兵第十四連隊は、田原坂に最初に進入するも、この地で完膚無きまでに打ちのめされ、軍旗まで奪われてしまう。

IMG_0256_2.jpg
この田原坂を突破しなくては熊本城を救援できない政府軍は、田原坂一帯を包囲するように陣を敷き、波状攻撃を仕掛ける。

そして田原坂は地獄の激戦地と化す。

nisike.jpg
戦いに慣れない政府軍は士気の高い薩軍に苦戦、さらに降り続く雨は薩軍の抜刀隊によるゲリラ作戦に有利に働いた。


これに対して政府軍は「サムライにはサムライを」と、旧士族からなる強行白兵戦部隊「警ら抜刀隊」(巡査抜刀隊・警視庁抜刀隊とも言う)を投入する。
この警ら抜刀隊の士気は極めて高く、死傷率も高かったが序々に戦況を変えていった。(この抜刀隊には福島県(旧会津藩)出身者が多く志願していた)

IMG_0253_1.jpg
至近距離から数十万発の弾丸を打ち合い、刀と刀で白兵戦を行い、数メートルの陣地を奪い合う凄まじい激戦が17日間に渡って展開、政府軍・薩軍合わせて4,000人以上の死傷者を出し、政府軍がついに田原坂を突破する。

IMG_0252_1.jpg
現在も田原坂周辺には官軍墓地・薩軍墓地が多数点在する。

tabarus01.jpg
かつて死闘が繰り広げられたこの地も今では桜とつつじの綺麗な公園になっていた。僕が田原坂を訪れた時、地元の人たちがツツジの花見をしていた。
あまりにのどかで、ここが激戦地だった事を忘れそうになる。


西南の役全戦没者名簿碑。

IMG_0260_1_1_1.jpg
田原坂を突破され、幾度と無く試みた熊本城攻略も失敗、大分・宮崎での戦いも敗走した薩軍は本拠地・鹿児島へと撤退を開始する。
写真は熊本城公園。西南戦争の前哨戦とも言える神風連の乱、そのメンバーが戦死した場所でもある。平和だ。




「これが日本近代史最激戦地「田原坂」だ。それぞれの部隊の細かい動きなどを書いていくと本一冊分になりかねんので簡単に流れだけ説明した。」



「戦没者名簿碑が凄いわ。官軍側にも鹿児島県や九州出身者が多いのは驚き。戦場で親戚や古い友人と敵として再会したって話もあるわね。」



「因みに、この西南戦争、東京の新聞社などが記者を派遣して、日本中がほぼリアルタイムで戦況を知ったという最初の「特派員」の事例でもある。」



「東京から見ればやはり薩軍は時代遅れに見えただろうな・・・。」




「皮肉だろ?1867年の戊辰戦争の時には、旧幕府・会津・新撰組残党などを古い時代の勢力としてボコボコにした薩摩が、わずか10年後には立場が逆転しちゃってるという・・・。この時代の変化の速さは尋常じゃないな。」








西南戦争【死闘!田原坂!編】 終わり

          西南戦争【さらば!ラストサムライ達!編】に続く




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  1. 2006/07/05(水) 01:14:14|
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西南戦争【西郷、起つ!編】


(鹿児島市城山公園から観た桜島)


「さて、いよいよ九州全土を巻き込んだ内戦、西南戦争をやるぞ。」




「と、いう事は西郷さんね。」




「うむ。今回は予想以上に長くなったので3回に分ける。明治維新の中心勢力だった薩摩が、維新最終段階に於いて最大の障壁となる歴史の皮肉に感動せよ。」





20060704020755.jpg
1871年11月12日、岩倉具視を特命全権大使とする視察団が欧米を訪問していた頃、留守を預かっていたのが西郷隆盛を中心とする西郷内閣だった。
西郷内閣は以下の改革を発案、実行に移していた。

①警視庁の発端となる東京府邏卒(らそつ)の採用
②各県に司法省所属の府県裁判所の設置
③田畑永代売買解禁
④東京女学校・東京師範学校の設立
⑤学制の発布
⑥人身売買禁止令の発布
⑦散髪廃刀の自由、切り捨て・仇討ちの禁止
⑧キリスト教解禁
⑨国立銀行条例の制定
⑩太陽暦の採用
⑪徴兵令の布告
⑫華士族と平民の結婚許可
⑬地租改正の布告

西郷のカリスマもあってか、この時代には珍しい平穏な日々が続いていたが、対外問題で重要懸案があった。

鎖国を続ける朝鮮問題である。

一般的には西郷は武力で朝鮮を屈服させるべしという、いわゆる「征韓論」を唱えたと言われているが、残っている史料にはそのような事を西郷が主張したという記録はない。

むしろ西郷は武力行使を拒否した上で、朝鮮を説得する為に自分を全権大使として派遣するよう求めている。

0005_r.jpg
結局、内政優先を唱えた大久保利通の一派との対立の末、1873年10月23日、西郷は辞表を提出し、郷里・鹿児島へと戻る。
この時、新政府の軍部や官僚で重要なポストに就いていた別府晋介・桐野利秋・村田新八・篠原国幹などの有能な人材が西郷を慕い共に鹿児島へと戻っている。

鹿児島へ戻った西郷は政治から離れ、禄を失った武士達に率先して農業を教え、私学校を開いて子弟を教育するという生活を送っていた。

しかし明治新政府にとっては西郷は脅威以外の何物でもなかった。

維新の勝者でありながら特権を失い不満を募らせる九州の武士達の中に、絶大な求心力を持つ西郷隆盛と強固な信頼で結ばれた有能な部下達、それを誰よりも理解していたのは同じ薩摩出身で、かつては西郷の同志だった大久保利通自身だったのかも知れない。


1876年10月、熊本で「神風連の乱」、福岡で「秋月の乱」、山口で「萩の乱」が発生、新政府はこれを徹底的に弾圧した。
そして最も警戒すべき薩摩に送り込んだスパイが捕まった事を知ると、危険を察知したのか、すぐさま鹿児島の陸軍倉庫から武器・弾薬を大阪に移送しようとした。
しかし私学校生徒らはこれに激昂、鹿児島各地の弾薬庫を次々と襲撃してしまう。

この知らせを聞いた西郷は「なんという事を・・・。」と呟いたといわれている。
しかし続々と西郷の下へと集結し始めた自分を慕う者達を前に西郷は挙兵を決意する。





「長い。」



「読め。
これから始まる熊本~鹿児島ツアーについてこれんぞ。ちなみにお前、幕末・維新では誰が好きか?」



「幕末・維新?そうね、やっぱり坂本竜馬!


ryouma.jpg


「土方歳三!」


toshizou.jpg


「渋沢平九郎!」


shibusawaheikurou.jpg


「お前ソレ単純にで選んでないか?」







 西南戦争【西郷、起つ!編】   終わり


              西南戦争【死闘!田原坂!編】に続く





幕末維新の英雄は人物の信念と行動で選ぶべし(必ず好みのタイプがいるハズ)
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個人では晋作ちゃんだなーアクセス解析


テーマ:歴史 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/04(火) 02:49:30|
  2. 幕末維新烈風伝
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:3

ヤル気らしい

「韓国海洋警察、哨戒機を前進配置」 朝鮮日報
竹島周辺海域は11日頃のようです。

ドサクサに紛れてヤツラも来ていた。

「尖閣諸島近海に中国調査船 事前通報なし」 共同通信
海上保安庁の警告を無視して丸一日うろついていたらしい。

彼らは日本人が強硬手段に出ない事を判っている。
だからこそ警告を無視できる。

ロシアやアメリカの警告を無視したりはしないだろう。
彼らは日本人に対して「軍国主義」や「戦争の被害」を叫べば、
日本人がおとなしくなる事を知っている。

「日本人は残酷」で「暴力的」だと言いながら、
今の日本人が優しい事を誰よりも判っている。
そして誰よりもその優しさに甘えていながら誰よりも日本を侮辱する。


日本国をナメているといい。
ヤマト民族を見下していればいい。

団塊の世代が引退し、僕達の世代が社会の中枢に到達するその日まで。

僕達はツバを吐き掛けれてもニヤニヤ愛想笑いで誤魔化す世代ではない。
もっとナメて近づけよ、ブン殴ってやるから。
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テーマ:中朝韓ニュース - ジャンル:ニュース

  1. 2006/07/03(月) 17:57:11|
  2. 時事・雑感
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:8

吉野ヶ里遺跡の話・・・だったはずが


「え~っと、今日は古代史か。」




「僕を呼んだかい?」




「すまん、貴様は誰だ?







IMG_1725_1.jpg
佐賀県神埼郡の吉野ヶ里歴史公園
え~・・・なんつーか古代史ですか、古代史はわかりません(キッパリ)。
サラッと基本的な情報だけ書こうと思います。

IMG_1731_1.jpg
吉野ヶ里遺跡は大正時代末期頃から注目されていたが、本格的な発掘調査は1970年代あたりからのようです。
そして1989年に魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の集落と同じ作りである事、また国内最大規模の環濠集落である事が報道され、一躍有名になったそうです。

IMG_1735_1.jpg
現在、吉野ヶ里遺跡の公開されている地域は発掘調査が終わったエリアという事で、ほとんど全て復元かレプリカです。
生の遺跡が見られると思っていたら、少しがっかりします。

調査が終了した遺跡は盛り土で埋め立て保存されて、その上に堀や建物を復元しているそうです。
↓こんな具合に
himika.jpg
右はマスコットキャラのひみか嬢。

歴史好きの共通点として、「想像力」というのがあります。
その場所で誰が何をして、どんなドラマがあったかを想像する事で歴史上の人物達とすれ違う体験ができるわけですが、古代史の場合はあまりにも史料が乏しいという欠点がありますね。

現代>近代>中世>古代と遡るごとに史料も少なくなり、解釈に推測の割合が増えて、史実が見えにくくなってしまう。
吉野ヶ里公園も結局は「こうだっただろう」という推測の上に成り立っているため、古代史の知識と想像力が乏しい僕はいつもの興奮はなかったですね・・・。

IMG_1744_1.jpg
ただそういう古代史ロマンが好きな人達がいなければ何も広がっていかないワケで。日本史の豊かさ、奥深さを証明する為にも古代史ファンの方々に頑張って盛り上げていただきたいですね。
(ただしフジムラさんのようなオイタはゴメンですが)

僕ですか、僕はやっぱり「日本帝国(海軍)>幕末維新(薩摩)>戦国(島津)」という立派な男の子コースの歴史好きです・・・。




「なんだ・・・ボクの話じゃなかったのか・・・。」




「いや、だから貴様は誰なんだ?とういかその髪型はなんだ?ケンカを売ってるのか?」



「クックック・・・ヤマトの諸君・・・なめられたものだな・・・。」



「マモー!?」




「違う!!」












「マモーは知ってるのにボクの事を知らないなんて・・・。」






『吉野ヶ里遺跡の話・・・だったはずが』  終わり



松本零士先生は心の師匠。
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とりあえず劇場版だけでも観ていただかないと・・・。

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テーマ:史跡 - ジャンル:学問・文化・芸術

  1. 2006/07/01(土) 19:12:44|
  2. 知られざる日本
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:7

プロフィール

コウノスケ

Author:コウノスケ
特攻隊の亡霊クニオと少女サキの
「祖国日本」を知る旅。








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